第74話 アリゴ市民

【1】

 デ・コース伯爵は不満をかこっていた。

 近衛騎士団の元大隊長か何か知らないが男爵ごときに押し掛けられて権力を背に威圧されたのだ。

 八代続く名門のこのデ・コース伯爵がだ。


 そもそも海軍などと言う訳の解らないものを持って来たカブレラス公爵に騙されたのだ。

 てっきりオーブラック商会の後釜になるような利益をもたらしてくれると思っていたのだが大誤算であった。

 平民の商人風情でもあそこ迄利益を上げられるなら公爵家肝入りの海軍なら何倍もの利益をもたらしてくれると思って承諾すれば、やって来たのは薄汚いケダモノの集団だ。


 そんな者領内に入れて大きな顔をさせる訳には行かない。海軍の施設に閉じこめて搾り取ってやるつもりが、海軍が囲い込んで全ての利益をルーション砦に取り込んでしまっている。


 そして近くの漁村の者がケダモノどもから買ってくる物資の一部をおこぼれのようにアリゴの市民が買い上げているのだ。

 そう薄汚い漁民どもから伯爵のお膝元であるアリゴ市民がおこぼれに預かっているのだ。

 これほどの屈辱的な事があっていいものか。


 だから西部の男爵ごときの提案を聞いてやったのだ。

 領都の獣人属排除令が撤廃されれば金を持った獣人属が金を落としに来ると言うから条件を呑んでやったのだ。男爵ごときの要求に対して。


 その結果はケダモノどもがやって来てあろう事か燕麦や大麦を持って来て貧民に売りさばいて帰って行くだけだ。

 海軍が随行しているので徴用する事も難しく、格安の売値の為売買税も微々たるものだ。

 本来大手の商会が買い上げて店舗で販売するものを勝手に路上で販売し州都の秩序を乱している。

 おまけに粥にしてそのまま食べるので、粉挽税もパン窯税も収められる事が無い。

 下等な貧民共だけが家畜の餌を食って肥え太り必要な小麦は供給されないのだ。

 我ら領主家だけではなく市民である商会の人間も虚仮にされているのだ。


 だからといって武力で勝り公爵家の権威を笠に着たルーション砦に盾突く訳にも行かない。

 今は歯噛みする事しか出来ないのだ。


【2】

「諸君! デ・コース伯爵が獣人属排除令を撤廃したぞ」

「本当か? 本当に撤廃されたのか?」

「数日前に海軍のルーション砦を管理するクルクワ男爵がデ・コース伯爵を表敬訪問したことは聞いていただろう。あれは建前で領令撤廃の圧力を掛けにやって来たそうだ」


「海軍の軍人がか?」

「聞いた事があるぞ海軍の下士官は獣人属が多く採用されているそうじゃないか」

「士官候補生にもかなりいるらしい。なんでも北西部のどこかにある清貧派領が送り込んでいるそうだぞ」


「という事は海軍は我々の味方という事か」

「全てを信じるつもりは無いが、幹部のエダム男爵家もクルクワ男爵家も西部では急先鋒の清貧派州のパルミジャーノ州の貴族だ」

「どうも期待して良い様だな」


 彼らが集まってそう話していた数日後には海軍軍人が獣人属の荷駄隊を連れてアリゴにやって来た。

 そして貧民街に近い路上に荷駄を並べて押麦やオートミールを販売し始めた。

 それも今までアリゴで売られていた燕麦や大麦の価格よりも安い価格でだ。


 燕麦や大麦は買ったところで脱穀をしなければいけない。

 そして粉に引いてパンに焼けば籾やフスマの量が減ってしまう。そして粉挽税が取られて、それからパンに焼けば薪代もパン屋の手数料もパン窯税も引かれるのだ。

 しかし押麦もオートミールも釜に入れて煮るだけで粥にして食べる事が出来る。


「皆さん、私たちは聖女ジャンヌ様の思いを胸に活動をしてまいりました。聖女ジャンヌ様は獣人属も人属も誰一人として見捨てず治癒施術を行っていらっしゃいます。その思いに賛同して農村開放要求書を提案してまいりました」

「俺たちも直ぐに全部が通ると思っていない。でもな、獣人属の差別撤廃や聖教会への喜捨を貧民に放出するなどの提案はこの州都でも可能だと思って要求するつもりだったんだ」


「その一部が海軍によって実現したのです。海軍は聖女ジャンヌ様のお考えを体現しようと考える者が多く、獣人属を多く雇い貧民を作業員として砦に雇っていると聞きます」

「その結果の一つがこれだ! 俺たちの要求書を汲んでくれた人が居たんだろう。あのデ・コース伯爵に海軍のお偉い様が意見してくれて領令の撤廃とあの食料の販売が始まったんだ」


「これも聖女ジャンヌ様のお力です。世は変わろうとしています。聖女様は私達を見捨てられませんでした。これを心に刻んでください」

 若者たちは自分たちの想いを汲んでくれる者がジャンヌの側に要る事を確信したのだ。


 海軍はそれからも定期的にやって来て押麦とオートミールを売っている。

 その為大麦やライ麦を扱う商会はもとより、粉挽き小屋を管理する代官もパン職人ギルドも不満を募らせている。


 小売商やパン職人ギルドも実力行使を考えるほどに不満が溜まっているが、獣人属には常に海軍の兵隊が付いて来る。

 何よりかい軍の軍人は船乗り上がりが多いので教導騎士団や州都騎士団よりもずっと武骨で乱暴者の雰囲気を醸し出していた。

 事実腕っぷしが自慢の乱暴者が多い集団である。


 そして獣人属や海軍に何かあると押麦やオートミールの販売が止まってしまうので下層市民は彼らの味方だ。

 回り回ってアリゴの市民は上層の商人やギルド員と下層民との対立という構図が出来つつある。


「みんな聞いてくれ。今俺たちが生きていられるのは何おお陰だ? 獣人属が安く食料を降ろしてくれているからだろう」

「考えて下さい。獣人属だって裕福じゃ無いから貴族のように白パンが食べられる訳じゃない。私たちと同じ燕麦や大麦を食べているんです。だからこうして私たちに売ってくれているのです」


「獣人属も小売りの商人に売ればもっと儲かると思わないか? だが小売りの商人はそれを俺たちに売るだろうか? 違うな、小麦商を呼んで全部小麦に替えちまう。てめえらが食うパンを焼くためにな」

「もともと儲かるのは小売商と貴族とギルドだけで俺たちは飢えたままのはずだった。でもなあいつらは寿人属を襲う事を画策してる。そうなればまた俺たちは泥水を啜らなけりゃならねえ。どうすんだ、お前らは!」


 貧民街の辻でそう言って煽って回る若者たちがいる。

 下層民はその話をもっともだと思い、獣人属に被害が出れば自分たちの生活も壊れると実感しだした。

「俺たちで獣人属を守ってやろうぜ」

「ああ海軍の兵隊も全部に目が届く訳じゃねえ」

「もう飢えるのは御免だからな」


「分かってるじゃねえか。、なら俺たちのする事は一つよ。皆斧を研げ、ナイフを磨け! 不埒な奴らが来たなら返り討ちにしてやれ」

「俺たちには海軍も付いてる。海軍が悪い様にはしねえだろう」


 その日からアリゴ市内では下層民が自警団を組んで下町の巡回を始めた。

 アリゴ市内では宗派や思想に関係なく上級市民と下層市民の明確な対立構造が出来てしまった。

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