第70話 脱走組織(2)
【3】
ハーフである野良猫は特徴的な耳が頭の上に出ていない。
長髪にしていれば気付かれ難いが、目を見られれば猫目である事がバレてしまう。
ダッレーヴォ州に侵入するまでこの州の状態がここまで酷いとは思わなかった。
アジアーゴの海賊船に雇われた頃はアジアーゴの城壁の外に出る事はおろか、波止場の周辺から離れる事もままならなかったし、ド・ヌール夫人の組織に助けられ州境を抜ける間は荷馬車に隠れて息をひそめ続けていたのだから。
アジアーゴの波止場に居る時は獣人属とは言えそこそこの小金持ちだったので少なくともひもじい思いをした事は無かったのだ。
改めてダッレーヴォ州を、ペスカトーレ侯爵領を見ればアルハズ州やオーブラック州に負けず劣らずの地獄だった。
州内での清貧派への弾圧や農村への搾取も苛烈を極め、聖教会の下級修道士から聞いた話ではアントワネット・シェブリ伯爵令嬢は領主代行ながら旧来の勢力に抗しきれず己が無力を嘆いていると言う。
そう言えば声明文でもその様な事を言っていた。
そうであれば暫くの間はアントワネット・シェブリ伯爵令嬢に期待は出来ない。潜在的には味方であろうが、今は力を伴なっていないのだから。
そう達観しつつも野良猫の目的はダッレーヴォ州からの困窮民の救出である。
主に洗礼式前後の幼児や未成年を中心に脱走のほう助を進めた来た。
他州に比べてここは警備が厳しいので、大人の脱走は難しい。
成人前の若者ならば自らの意思で脱走についてくるため成功率が高い。
彼らと一緒に労働力にならない子供を中心に逃がしてはいるが、これは親を説得するのに労力を要する。
何の保証も無く子供を連れ去るのだから不安も残るだろう。
それにペスカトーレ侯爵領は領境を二つ越えねば州境へはたどり着けない。それでも三回の脱走で四十人近くを清貧派領へ送り出した。
そして四回目は十五人の子供たちを送り出すために七人の大人たちが送り出しに付き添った。
場合によってばらばらに逃げて監視兵どもの攪乱を図る事も視野に入れていた。
そして野良猫は下手を打った。
先行で逃がした十五人の子供たちが森に消えて一刻あまり、続いて森に入りかけた時にたまたま森の入り口でサボっていた領兵に遭遇したのだ。
危険を察知して領兵を引きつける為に単独で森の入り口に向かって走った野良猫を追いかけて領兵が駆けてくる。
ところがパニックになった他の農民七人が野良猫を追いかけてきてしまったのだ。
結局八人全員が捕縛されてしまった。
腰縄を打たれて木の棒を渡されて地面に穴を掘らされた。
当然ここで処刑されて自分が掘った穴に放り込まれる事になるのだろう。
「もう鐘一つ半以上たったなあ。これであいつらは領境を越えられるよなあ」
捕まった中年の農民は泣き笑いしながらそう言って穴を掘り続けた。
「ああ、今頃は州境に辿り着いている頃だろうよ。直ぐにあいつらは別天地に辿り着くさ」
「あんたを信じて良かったと思うぜ。俺の命でガキどもが救われるんだ」
【4】
子どもを森に逃がしてから鐘二つ分は経っただろうか。
野良猫たちは縄で両手を縛り上げられて、掘った穴の前に跪いて座らされた。
ああ、もうこれで終わりなんだろう。
それでもミシャたちは幸せになれそうだ。同じような子供達も沢山逃がす事が出来た。
少なくとも海賊船に乗っていて縛り首になるよりはずっと意味のある人生が送れたと思う。
もう悔いはねえ。
街道の向こうから遠目に馬車が向かってくるのが見える。
領兵の隊長格が掛け声をかけると一人が大剣を抜いて両手で振り被った。
泣き笑いして穴を掘っていた中年の農夫の首が飛んだ。
皆覚悟は出来ているのだが、恐怖で腰が引けて二人目からは両脇を兵士に押さえ付けられながら首が飛ばされた。
ああこの順番なら俺は五番目か。
そう思いながらも、もう一度ミシャたちに会いたいなあと思うと涙がこぼれてきた。
三人目の首が飛ばされた。
涙で霞む目で街道を見ると馬車が止まっていて、中から表情の無い冷たい目をした女が降りてきた。
「お止めなさい! もうそれ以上は止めるのです」
女の声が響いた。
「罰しないと領兵隊長からの咎めがあるのでしょうが、今は領主代行である私の顔を立てて納めてちょうだい。罪を問うならこのアントワネット・シェブリがそう申したと言いなさい」
野良猫がその言葉に驚いて顔を上げる。領兵隊長の前で話している女は華美な衣装をまとった透き通るように白い肌の氷を思わせる女だった。
「残りの五人は無罪放免とは行きませんから港湾労働の使役について貰いましょう。さあ早々に対応を致しなさい」
女は言うだけ言うとサッサと馬車に乗って去って行った。
野良猫はどうにか命だけは取り留めたのだなあとボンヤリと思った。
そして五人は腰縄で騎馬に引っ張られながら街道を歩いて二日かけてアジアーゴに連れて来られた。
「あれがアントワネット様だったのか」
「あのお方のお陰で命を助けられたな」
「ああ、きっとあのお方がペスカトーレ大司祭に嫁げばこの領地も変わるぞ」
「慈悲深い天使のようなお顔立ちだったな」
アジアーゴの向かう道すがら他の四人はアントワネット・シェブリ伯爵令嬢の賛辞ばかり口にしていた。
そして野良猫はアジアーゴに到着してからの脱走の算段に頭を巡らせていた。
アジアーゴでは過酷な港湾労働を強いられたが、春を迎えて極寒の海に落ちて死ぬようなことが無いだけで未だましである。
脱走に対する苦役と言いながらも他の港湾労働者と待遇は変わらないようだった。
一緒に来た四人はいつもアントワネット・シェブリへの感謝を口にしている。
そして野良猫といえばアントワネットの名前を聞くとなぜかミシャたちの顔ばかり浮かんでくる。
この先ミシャに会える可能性をくれたのだと思うとアントワネットにも感謝の念が浮かんでくるのだ。
もし命を落とす事があるなら死ぬ前にミシャたちの顔を一目見たい。そう思うとまた脱走の機会がないかばかり気になってくる。
どうやら野良猫たちには監視がついているようだ。
もしかすると野良猫たち脱走組織を一網打尽にするため泳がされているのかもしれないとも思うがそれでも逃げたいと思う。
どうやら監視対象は野良猫より年長の二人の農夫のようだ。
獣人族の野良猫は読み書きができないと思われているらしい。
正体を隠すために野良猫自体字を読めない風を装っているが、かといってほかの四人文字が読めるわけでもない。
脱走準備を悟らせないために慎重に事を進めた。
石に目印の文字を書いて四人に別々の場所で城壁の外に向かって投げてもらう。あとは清貧派の仲間からの接触を待つだけだ。
ほかの四人が良い隠れ蓑になってくれている。
幾度か組織から接触があったが、五人が同じつてでの脱走は成功率が低い。かといって一人づつ日を変えれば後に残る者の脱走の成功率は極端に下がる。
ほかの労働者も巻き込んで三ルートでの一斉脱走を決行することにした。
監視がついている二人には野良猫が同伴して若い二人はそれぞれ別ルートで他の作業員と脱走させた。
野良猫たち三人はある意味捨て駒であるが。この次捕まれば必ず首が飛ぶ。その覚悟を話すと監視がついている二人は、野良猫にここに残ることを告げた。
命も惜しいが恩赦をくれたアントワネットへの義理もある。
それなら監視の目を引き付けて若い三人だけでも逃げ延びてくれと言うのだ。
一緒に逃げる労働者たちのこともあるが、野良猫はどうしてもミシャたちに会いたかったがこれからの目的がある。
結局二人の農夫を残してほかの労働者とはポワチエ州の領地境で別れアルハズ州に戻って行ったのである。
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