第60話 毒は流れる

【1】

 あれ以来ジョバンニ・ペスカトーレは王立学校に姿を現していない。

 王都大聖堂の大司祭様なのだから、王立学校などに来る閑すらないのだろう。


 そして聖女ジャンヌは尋常でなく怒り狂っている。静かに深く凄まじく。

「名誉聖女? 多くの貴賓を癒した? その偉業の中に農村を巡って無償で治癒した事実が何故入らないの! そんな名誉をペスカトーレ家から貰う必要などないわよ! 何より母上の名はジョアンナ・スティルトンよ! まるで教導派の走狗のように言われて、父上の姓まで蔑まれて。これこそ聖女ジョアンナの、母上の偉業を貶める行為だわ!」


 しかしこのあざといペスカトーレ枢機卿の告知はジャンヌの思いとは裏腹に清貧派全体に影を落としている。

「嘆かわしい話なのだがボードレール伯爵家でも末端の者の一部に今回の発表を歓迎する者が居る。特にジョアンナの苦悩や苦しみを知らぬ若いものほどその傾向が強いのだ」


 ボードレール伯爵家の名前が顕彰される事への満足感はあるのだろうが、その為に踏みにじられるジャンヌの気持ちは良く判る。

 これ迄もジャンヌがスティルトン姓を名乗っている事に不満を持っていた者がボードレール伯爵家にも居たと言う。


 命を賭してジャンヌを守った、その為に殺された父のスティルトン騎士団長や祖母の事を知るならばジャンヌがスティルトン姓を誇りにしている事も理解できるだろうに。

「嘆かわしいと言うよりも腹立たしいのだよ! それを喜んでいる者がジャンヌの従兄弟にあたる者たちだという事が。これ迄ジャンヌが行って来た村々での治癒施術や農法の改良、そして治癒院での治癒治療、聖教会教室や聖教会工房。それを目の当たりにしながら理解が出来ておらんのだ!」


 レスター州はジャンヌのお陰で豊かになった。ブリー州をはじめ南部諸州全般に言える事だがここ十年ほどで南部の経済事情は大きく好転して、今では国内有数の豊かな地域である。


 それを指導してきたのがライトスミス商会であり、聖女ジャンヌだ。

 平民の商人に平民の聖女。

 若い貴族子弟たちはその功績に対する名誉を得られていないと考える者もいる。


 そこに今回のペスカトーレ枢機卿の顕彰である。

 ボードレール伯爵家の名を冠したジョアンナの顕彰に自分たちにも光が当たったように錯覚し始めた者がいるのだ。

 聖女ジャンヌもジョアンナの娘であればボードレール伯爵家を名乗るべきだと言い出す者も出て来ている。


 二十代後半以上のかつての南部の窮状を理解している者や教導派や前国王に煮え湯を飲まされた中年以上の諸貴族がこの声明に激怒し表立って動きは無いが不和の種は撒かれているのだ。


 ボードレール枢機卿もボードレール伯爵家もペスカトーレ枢機卿の発表に大々的な批判声明を発し親族として顕彰を拒否するとともに、聖女ジョアンナの夫であるスティルトン騎子爵の功績とその非業の死、そしてジャンヌを育てた祖母の殺害を改めて喧伝し教皇庁の非道を非難した。

 また枢機卿が述べた功績に対して支払われた喜捨はすべて教皇庁が吸い上げて、ジョアンナは清貧を貫いた事。

 そしてジョアンナの功績は無償で農村や貧民街の治癒活動に従事した事でありその精神は今の聖女ジャンヌに受け継がれていると声明を出した。


 ただこれ以上の論争や対立は今は避けたいのも事実である。

 ジャンヌの怒りは収まらず、自らの口で反論を望んだがこれはボードレール枢機卿と私で説得し口を噤ませた。


 真意はどうあれ教皇派から歩み寄ったと見えるこの内容に対して、頑なに罵声を浴びせ続ける事は清貧派としてマイナスにしかならない。

 私だって腸は煮えかえっている。

 それでもここで暴発する者が現れればそれは教導派がこちらを潰しにかかる口実になってしまう。

 今は動けないのだ。…今は。


【2】

 奴らが毒を撒くならこちらだって考えはある。

 王都での清貧派聖教会主催の炊き出しを行う場所を増やす事にした。

 王都周辺の北部領地は三月四月が播種の頃である。


 農村周辺では雪融けに応じて山菜や野草が生えてくるので食糧事情は好転する。しかし王都民はそうは行かない。

 収穫されていた穀物がそろそろ不足し始める季節なのだ。

 当然王都の民は野草や山菜など採取に行かないし食べる事も無い。

 高騰していた穀物価格はさらに上昇しつつあった。


 清貧派の炊き出しはこれまでのオートミールの量を減らしてフスマで嵩増ししたものに変更し一カ所での量も減らした。

 その代わり教導派聖教会の教区の近くまで進出し、今までの二倍以上の箇所で炊き出しを始める。


「おい、炊き出しの燕麦が少なくなったんじゃねえか?」

「まあそう言うな。穀物の価格も上がってるし、炊き出し場所も教導派聖教会の近くまで広がたそうだぜ」

「なんだよ。そんな事すりゃあ教導派の連中まで炊き出しに並ぶようになるぜ」

「狭量な事を言うな。それも聖女ジャンヌ様のお慈悲じゃねえか」

 こう言った些細な事で教導派への反発や不満出てくる。

 人というのは身勝手な物で今までの既得権が脅かされたような錯覚を覚え教導派に不満を募らせるのだ。


「なあおっちゃん、王都大聖堂は炊き出しをしないんだろうか?」

「そう言えば聞かねえなあ?」

「月に一度だけ王都大聖堂の中でやってるそうだぜ。ライ麦パンが配られるって聞いた事があるな」

「なんだよそれって。王都大聖堂に入るには喜捨を払わなくちゃいけねえじゃないか。結局ライ麦パンを買いに行くのと同じじゃねえか」


「おっちゃん達、でもそれって前の大司祭様の時の話だろう。今の大司祭は違うだろう」

「おお、そう言えばそうだ。あのペスカトーレ大司祭様ならば何か変わるんじゃねえか?」

「来月の一日には大司祭様の就任だろう」

「教導は教区のギリギリの場所でもライ麦パンを配るかも知れねえな」

「いや、違うな。こいつは慶事だ。もしかすると白パンが配られるかもしれねえぜ」

「違えねえ。きっとそうだ。清貧派と同じくらい、いやそれ以上の場所でパンの配布があるんだ!」


 こう言った会話が清貧派の炊き出し場で繰り返し語られている。

 当然全員がナデテの部以下たちで、全てはこちらの仕込みである。


 いつの間にか市井では四月の一日のジョバンニ・ペスカトーレ大司祭の就任式に合わせて王都大聖堂が大々的に白パンの配布を王都各地の辻で行うという事があたかも決定事項のように囁かれ始めた。


「これでジョバンニの奴後に引けなくなったわよ。まあペスカトーレ家ならこの程度の出費は痛くも無いでしょうけどね」

「でも白パンを配布すればあの男の株は上がるのだわ。それはそれで腹立たしいのだわ」

「評判を落としたく無ければ配布する白パンも大きめにする必要があるのよ。小さかったり、燕麦パンやライ麦パンでは配布しても感謝する者は少ないですもの」

「そうですよね。セイラさんのお陰で少しは留飲が下がりましたよ」


「ジャンヌさんにそう言って貰えてうれしいわ。それにこの配布が一回きりなら評価が上がった分落ちるのも大きいわよ。そうなったらこちらから更にハードルを上げて持ち出しを増やさせてやるだけの事だわ。元はと言えば市民から毟り取った喜捨じゃないの。カエサレル物はカエサレル、市民の物は市民によ」

「セイラさん…それは意味が全然違う…」


 これでいくらか溜飲は下がるが、単なる嫌がらせだ。ペスカトーレ侯爵家の持ち出しが増えるだけで大きな影響は出ないだろう。

 ジョアンナの栄誉認定とういう見せかけの言葉で不和の種を蒔かれた影響を思うと暗澹たる気持ちになるのだ。

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