第55話 王都大聖堂(2)

【3】

「ジャックでも役に立つ事があるんだねえ」

「ああ、お嬢の前だとこんななのに歌わせればすげえもんなあ」

「人には一つくらい取柄がある物ですよ。お嬢の言ってた必ず誰かの役に立つという言葉を体現しているような奴ですから」

 私とポールとピエールの前でジャックはナデテの作ったドーナッツを盗み食いして殴られている。


「みなさんは酷すぎます。ジャックさんは誠実ですし前向きで明るくて優しい人ですよ」

「まっ…まあ、聖霊歌も真面目に練習していたし、ジャンヌ様の仰る通りですが…」

「でも、バカですから…」

「ジャンヌさんはえらくジャックの肩を持つけれど何? あいつ締めた方がいいかな」


「セイラさん、すぐそんな事を言って! 娘に干渉する父親って、一番に嫌われるタイプだから。義妹のルシンダちゃんが大きくなったら、カンボゾーラ子爵様と揃って嫌われて口も利いてくれなくなるからね!」


「最近ジャンヌ様ってお嬢に容赦なくないか?」

「お嬢は旦那様や奥様が近くに居ないからあれくらい言ってくれる人が必要なんですよ。良い事です」

「おい! そこの二人聞こえてるからな!」

「セイラさん! 今回は三人のお陰で群衆も沈静化したんですよ。少しは労いの言葉をかけるべきです。セイラさんが行ってたら火に油を注いだでしょうからね」


「そうだぞお嬢! 俺を労ってドーナッツ百個よこせ!」

「…三人ともありがとう。大事にならずに済んで助かったわ。…ねえジャンヌさん、ドーナツ百個とか言ってるこのバカを庇う必要が何処にあるの?」


 とは言うものの三人のお陰で暴動には至らず、民衆は王都大聖堂に不信だけを募らせてジョン王子の婚礼を待ちわびる空気が醸成されている。

 特に理由もなく闇の聖女と光の神子に祝福された王子の婚姻で世の中が変わるという期待感だけが膨らんだ状況なのだ。

 国王派がこの婚姻を潰しにかかれば王都の市民は爆発する。


 王都の不景気と食料不足による麦の価格高騰が暗い影を落としていた中、治癒贖罪符の一件はその不満を王都聖教会に向ける格好の手段であった。

 そしてジョン王子の婚姻はその閉塞感の中で根拠はないが一縷の希望である。

 教皇庁に繋がるペスカトーレ侯爵家やシェブリ伯爵家はその微妙なバランスを弁えていると思うのだが、国王とモン・ドール侯爵家が暴発しないかが今の状況の鍵である。


 どちらにせよ教導派聖教会は理屈で押した私の意見書より感情に訴えかけたジャンヌの講話の方が圧力になったようで、口を噤んでやり過ごす事が出来なくなったようだ。


【4】

 私が教導派聖教会に口やかましく述べている事は”聖教会の聖典に書かれていない事を根拠なく押し付けるなという事だった。

 過去の布告や法令を引いて聖典との矛盾点を指摘してゆくやり方は聖職者や学者がどう思ったか判らないが聖教会からは徹底的に無視された。


 ジャンヌはまず皆が聖典を読む事だと言う。

 聖典の解放を! 古典言語で書かれた聖典の口語訳とその出版を聖教会に求めた。


 治癒贖罪符の廃止を! 現世の罪を善行では無く金銭で購うのなら盗賊が金を払って天国に行けるのか、これ迄ジョアンナだけでなく多くの聖者が行った治癒は盗賊のそれより劣ると言うのかと問いかける。


 すべての平等を認めよ! そして聖典に記されていない、何より聖典の頃には人は全て平等で種族間の区別も無かった。その無かったはずの身分や階級に、創造主が施す恩恵に差をつける事など在ろうはずがない。


 聖職者は清貧を旨とせよ! そも救世の預言者は民の中に生まれ民の中に在って救済を説いた。清貧を旨とした預言者に照らして恥ずかしく無いのか。


 この質問状をジャンヌは王都の清貧派聖教会の前に掲げさせたのである。


 それに対して大聖堂はがその重い口を開いた。

 聖典とは創造主が聖教会に与えた権威と伝統であり、聖典に上位聖職者以外の者が見解を述べる事を許してはいけない。

 それを助長するような聖典の解放などもってのほかである。


 治癒贖罪符は創造主と聖教会の慈悲の表れであり、罪の赦しを受けるための悔悛の行為として正当である。また、治癒贖罪符の販売は聖教会の建設や慈善活動に資金を提供するために必要である。


 高位聖職者や高位貴族は創造主から特別な使命を受けた存在であり、聖教会や社会の秩序と運営において重要な役割を果たす。聖職者や貴族の特権と地位は王室の伝統と聖教会の神聖な秩序の一部である


 一部に腐敗した聖職者が存在しておりその改革の必要性は認めるが、清貧派の批判は市民を煽るものであり、教会の安定と秩序を脅かすものである。教会の内部改革は教会自身の問題であり、外部からの過激な攻撃は許容できない。


 これが王都大聖堂が発した公式な見解である。


 こんな穴だらけの理屈は論破してやる!

 公開討論の場を設けてディベート対決を主張した私ににボードレール枢機卿も乗り気になり聴聞会を開こうと動き出した矢先にジャンヌが待ったをかけた。


 これ以上の論争は控えると言うのだ。

「しかしジャンヌよ。今ならば教導派に対して攻勢に出られるではないか。愚かな領主や強欲な教導派聖教会の搾取で王都の食糧事情は困窮しているのだぞ」

「その為の奉仕活動であり麦粥の配布ではありませんか。これで市民の支持は得ております」


「だからこそ今教導派に内部腐敗の状況だけでも認めさせて奉仕活動に引っ張り出せるかもしれないのに」

「だから男の人は勝つことだけしか見えてないのよ。ディベートで言い負かして目の前の勝ちを拾って相手のヘイトを積み上げさせれば気持ちは良いでしょうね。市民を煽ってプレッシャーをかけて大聖堂が怯えればいいけれど、窮鼠猫を噛むって言葉を知らないの」


「それはそうかも知れないけれど、それなら水に落ちた犬は…」

「打つな…だからね、本当の諺は。打ては、命を狙われ続けた魯迅が国民党への憎しみのあまり発した言葉だから」

「落ち着いて、ジャンヌさん…。そんな話、みんなわからないから」


「本来は勝敗が決している敵に対して無用な攻撃はするなという事でした。それが政敵に命を狙われ続けた賢者が動議も恩義も感じない外道には意味が無い。殺してしまえという意味で”水に落ちた犬は打て”と言ったのです」

「だから教導派もジャンヌの命を狙う、ジャンヌの両親を殺した外道で…」

「『父さん』何を焦ってるの! おかしいよ、今までのセイラさんならこんなに相手を追い詰める様な事は考えなかったはずだよ。冷静になって! 王都中の人々を命の危険に晒す可能性が残るような事を仕出かそうとしないで」


「ジャンヌ、其方こそいったい何の話をしておるのだ? わしもセイラ殿も少々興奮して暴走しかけておったのは謝罪するが、其方こそ何を申しておるのかさっぱりわからん」

「伯父上様、私も少々興奮しておりましたがセイラさんには伝わったようです」


 そう、私(俺)にキッチリ伝わった。

 いつも通り両頬を自分で叩いて気合を入れる。

 冬海(ジャンヌ)に入れ込み過ぎて大局を見失っていたのだ。

 誰も気づいていないだろうが、今のこの王都の惨状を引き起こした原因も私にある。

 そしてこの事態を収拾する力があるのも私だけだろう。

 自慢でも傲慢でも無い。


 経済だけならエマ姉は全て動かせるだろう、けど聖教会の教義とのバランスは彼女には取れない。

 ジャンヌなら市民の力を背景に暴動に発展させず平和裏に主張を通す事も可能だろう。しかしそれも政治的な思惑が入り込まなければの話である。

 ならヨアンナやファナ同じ事を出来るかといえば一族の存続が最優先になる。当然王妃殿下もジョン王子も王家の存続が全てにおいて優先される。


 個人的には一番私に対抗できる者はアントワネット・シェブリ伯爵令嬢だろう。

 ただ彼女が全てを握ると、この先千年世界は農奴制の闇に沈んでしまうだろう。

 ならば私が潰れる訳には行かない。

 浅はかな感情論に突き動かされる事無く地に足を付けるべきだった。

「『冬海』目的を見失ってたよ。私はもうだれ一人失いたくない。私は絶対倒れないから私も生きて皆も生きて幸せになるために」

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