第36話 蜂蜜ジンジャークッキーの味(2)

【4】

 それは紛れもなく妻の絵里奈と娘の冬海と…俺の顔だった。

「ゴメン、皆一人にしてちょうだい。そして私が声をかける迄誰も入ってこないで」

 もうそれ以上の言葉は出なかった。

 三人とも長年仕えてくれたメイドで支えてくれた幼馴染みで親友たちだ。

 直ぐに私に何かある事を察したようで何も聞かずに直ぐに部屋を出て行ってくれた。


 ドアの閉まる音が聞こえた途端に涙腺は決壊した。とめどなく涙がこぼれて抑える事が出来ない。

 声を出さないように我慢しようとするが嗚咽が口を突く。手を口に押し当てて嗚咽を堪えつつ泣き続けた。


 もう何も考える事が出来ない。懐かしさと愛おしさと不安が混然となって頭の中を占めてしまっている。

 色々と取り繕わなければいけない事が山積している筈なのにもう何一つ考える事が出来ないのだ。

 私は菓子箱の蓋を閉めて、ベッドに腰を掛けた。


『ずるいぞ冬海、こんなの食べる事が出来ないじゃないか…。食べないと傷んでしまうし』

 そう思いながらベッドに倒れ込む。

 フラフラする頭を休める為そのまま目をつぶると頭の疲れが治まって行くように私はゆっくりと眠りに落ちてしまった。


 どれくらいたったのだろう窓の外は薄暗くなっている。

 日没前なので一~ニ時間といったところだろうか。かなり頭はすっきりした。仰向けになって天井を見上げる。

 肌寒さを感じ暖炉を見ると火が小さくなっている。


 薪をくべながら考える。

 冬海は幾つまで生きたのだろう。俺の心臓は間に合ったのだろうか? 天寿を全うできたのだろうか? 幸せな人生を送れたのだろうか?

 そんな事を考え始めると不安がとめどなく溢れてくる。


 そんなこと考えるべきじゃない。

 今は冬海では無くジャンヌ・スティルトンなのだ。だから俺(私)の目的はジャンヌの今を、これからの人生を幸せに生きさせる事だ。


 ジャンヌを殺させない事。

 ジャンヌの夢を実現させる事。

 ジャンヌが幸せでい続けられる事。

 ジャンヌが何より天寿を全うできる事。


 多分その中には俺(私)もヨアンナもファナもカロリーヌもオズマも、いやジョン王子やイヴァン達ですら含まれているに違いない。

 エマ姉…は放って置いても自分で幾らでも幸せ金貨を掴む事が出来るから大丈夫だろうけれど。


 頭の整理はまるでつかないが俺(私)がしたい事は直ぐにまとまった。

 整理なんてつけずとも前世の記憶が戻ってから俺(私)が思い続けてきた事と何一つ変わっていないのだから。

 変わった事はただ一つ。その目的の最上位にジャンヌ・スティルトンの救済が入った事だけだ。


 私はチェストの引き出しを開くと宝石箱を取り出し、菓子箱の包みの布にクッキーを包むと宝石箱の中に片付けてカギをかけた。

「何やってんだろうね。お菓子だよ。それを後生大事に宝石箱に片付けるなんて」

 自嘲気味に独り言が口を突く。


 そして空になった箱を暖炉にくべた。

 薄い木箱は直ぐに火が回り炎を上げ始める。

 火搔き棒でつついて完全に火が回った事を確かめてテーブルに戻った。

 ひえて冷たくなったお茶を飲み干すと頭がすっきりとした。


 テーブルの呼び鈴を鳴らすと直ぐにドアが開いてアドルフィーネたち三人が入って来た。本当によくできたメイド達だ。


「セイラ様御用でしょうか」

「アドルフィーネ、お茶を片付けてちょうだい。それから紙と鉛筆…それに燭台もお願いするわ」

「暖かいコーヒーをお持ち致しましょうか?」

「そうね、リオニー。お願するわ」

「もう暫くすると夕食のお時間ですぅ。ご無理なさらないで下さいぃ」

「ありがとうナデテ。気を付けるわ。夕食の時間には呼びに来てちょうだい」


「セイラ様、落ち着かれた様で嬉しゅうございます」

「ありがとう三人とも。酷く泣いてしまったようだったから書き物の前に顔を洗おうかしら。冷たい水とタオルもお願い」


「…宜しいのですか? 私どもにその様な事を仰って」

「良いわ。あなた達三人に隠し事はしたくない。詳しい事は無理だけれど。実はあのお菓子箱の中にはジャンヌさんの私あてのメッセージが入っていたの。私にしか話せない思いと覚悟が詰まっていて涙が止まらなくなってしまったわ」

 アドルフィーネたち三人はそれを聞きながら目の端で暖炉にくべられた菓子箱を視線だけで確認して納得した表情を見せた。


「それで、私どもはどのように動きましょう」

「今まで通り、ジャンヌさんの命を守り彼女の理想を実現する事。そして私やあなたたちを含めてヨアンナやファナたち皆が誰一人欠ける事無く幸せになれる事」

「ウフフ、なら今までしてきた事と何も変わらないですぅ」

「ええそうね。今まで通りね。それに気付くまでにこんなに時間がかかっちゃたわ。だから王都に帰ったらやるべきことをこれから整理するの」


「それではセイラ様ご無理をなさらず」

「夕食の準備が整ったらお知らせに参ります」

 …ああ仲間とは良い物だ。

 二組の両親と弟と妹、そして数え切れぬ友人たち、幼い頃からの仲間たち。

 ああ、私は何て幸せ者だったんだろう。


【5】

 机に向かって思考を巡らせてゆく。

 翻ってジャンヌは、冬海はどうだったのだろう。


 前世で十歳で母を十八歳で父を亡くし、今世では生まれてすぐに両親を亡くして、肉親に恵まれない人生を送っている。

 今ここで肉親に恵まれてのうのうと暮らせている自分の父としての不甲斐無さが悔やまれて仕方がない。


 自分以外に転生者がいる事を考えなかったことが悔やまれる。

 ヒントはいくつもあったのだ。

 ジャンヌの医療改革や農業改革、聖霊歌隊だって聞きなれた歌だと思っていたが今思えば前世のクラシックやジャズやロックのアレンジだったりする。

 何より彼女の言葉の端々に、発想の多くに前世の記憶が見え隠れしている。パイルもモカシンもプレタポルテもみな前世の言葉じゃないか。


 そしてあの菓子箱を包んだ包み方。

 これだって風呂敷の包み方だ。露天風呂と打たせ湯に食いついて来た時に気付くべきだったのだ。少なくとも日本生まれである事を。

 王立学校に帰ったならジャンヌとどんな顔をして合えばいいのだろう。


 今まで気づかなかった愚かな父として詫びるべきか、何より早逝してしてしまった事を詫びる事から始めるべきか。

 冬海の前世が息災だったのかどうかそれが一番気にかかるが、なにを聞けば良いと言うのだろう。

 聞いていい事なのかどうなのか今の俺(私)には判断が付きかねる。


 ただあの子の性格からしてもそんな事を望んでいる訳でも無いだろう。必要ならば話すだろうしそうでなければわざわざ聞くべきでは無いのだろう。

 冬海は今ジャンヌとしてこの世界に居るのだ。

 それが全てだ。そして俺(私)は今セイラ・カンボゾーラとしてここに生きている。


 これからは我が娘を守りその願いをかなえる事に躊躇する必要はない。

 ライトスミス商会とアヴァロン商事の総力をあげて教皇庁を叩き潰す。

 まず手始めに贖罪符をやり玉に挙げて教皇の牙城を突き崩すのだ。


 王立学校に戻ったらまず最初の一手は教皇庁の贖罪符を叩き潰す事。

 私はコーヒーを啜ると宝石箱の俺の顔のクッキーを取り出して齧った。今からは冬海の父でジャンヌの庇護者で清貧派の先兵のセイラ・カンボゾーラとして生きる。

 そう決意して食べた俺の顔のクッキーは何となく涙でしょっぱい味がした。

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