第35話 蜂蜜ジンジャークッキーの味(1)

【1】

 年が明けてライトスミス家の一行がカマンベール子爵領にやって来た。

 何でもジャンヌとカロリーヌのゴッダード滞在が少し伸びた事で出発が遅れたと連絡が来ていた。

 カロリーヌもレオン君が授戒するまでのわずかの期間であるがのびのびと過ごさせてやりたかった様で、冬だと言え雪も降らない商人の街であるゴッダードを堪能したようだ。


 冬至祭からの一週間ほどの間レオン君はオスカルや聖教会教室の子供たちと遊び回っていたという。

 これからもシャピの大司祭とライトスミス商会の当主になっても交流は続くのだと思う。そして行く行くはオスカル率いるライトスミス商会の力で枢機卿になって貰いたいものだ。


 そんな思いを胸に私もフィリポの新年の礼拝を終えるとルーシー義母上とルシンダと共にア・オーへ向かった。

 今回はフィリップ義父上は留守番だ。もちろんアナ司祭もニワンゴ司祭が戻るまでフィリポの聖教会や治癒院や学問所の管理代行の仕事をお願いしている。

 領内も安定し人材も育って来ていると言うものの領主一族が不在ではさすがに行政に不都合が出る。

 この世界では元日が開けると二日目からはもう社会は通常運転が始まるのだから。


 フィリップ義父上には馬車馬の如く働いて貰って、私は学生の身を満喫しルシンダを愛でながらオスカーと戯れて休みの残りを過ごすのだ。

 その予定で勇んでア・オーにやって来てカマンベール子爵邸に居る。

 元々手狭だった領主館は、ここ数年の間で増設や改築を繰り返し元の屋敷の三倍ほどになっているが、それでもまだまだ手狭である。


 一から立て直した方がいいと提言はしたが、カマンベール一族の貧乏性気質は抜けず、増改築を続けてウィンチェスターミステリーハウスのようになってしまっている。

 この間はルーカス君が邸内で迷子になったと聞いたが、ウィキンズとクロエお従姉ねえ様に子供が出来れば困った事になりそうな気がする。

 そのウィキンズとルカ中隊長は冬至祭が終わると王都で仕事がある為帰って行ったそうだ。

 クロエお従姉ねえ様は冬も帰らずに王都で勤務らしい。ご苦労な事である。


「クロエは内務省で書記官をしておるからな。なんでも早急に治癒術士を管理する法案を施行しなければいかないとかで大忙しだったらしい。それで今年の婚姻の挨拶と式の打ち合わせにウィキンズだけがやって来たのだよ。法案は無事通ったが運用に関してはクロエの部署が担当しておる様でな。今年は冬至祭も新年も返上じゃとウィキンズが申しておった」

 ゴメンナサイ! ゴメンナサイ! ゴメンナサイ! 心の中でクロエお従姉ねえ様に必死で詫びながら、努めて気の毒そうな顔でカマンベール子爵様の言葉を聞いていたが顔の表情筋があちこち痙攣するのが判る。

 カミユ様だけでなくクロエお従姉ねえ様にまで火の粉が降りかかっていたなんて。


 諸事情を知らないルーシー義母上やカマンベール子爵家の会話を聞きながら私は小さくなっていた。


【2】

 翌朝、河の船着き場に向かうと早暁に到着した交易船が荷降ろしを始めている。昨夜到着した河船は荷積みを終えて出港準備を始めている。

 身が引き締まるような寒さの中で皆全身から湯気を立てて作業をしている。


 河岸の横の露店が並ぶ広場も軽食を提供する屋台に人が屯し広場の真ん中の焚火を囲んで暖を取る人たちもいる。

 その中から私たちを見つけた河岸の作業員たちが手を振って声をかけて来る。

「領主さま! ルシオ様も坊ちゃんも嬢ちゃんもこっちに来て温まらねえか」

「ああ、そうさせて貰おう。ここに居る皆にシチューを奢るぞ。みんな食ってくれ」

 子爵の言葉に焚火の周りや作業員たちから歓声が上がる。


 ルシオ様はすでに屋台に行って金を払って、来る者みんなに振舞うように言い含めている。

 こういった領主と領民の距離が近いこの領はとても居心地がいい。

「あんたは確かルーシー様の娘さんじゃったな。ルーシー様は帰られてないのか?」

「いえ、義母上は義妹のルシンダの世話が有るのでカマンベール邸で待っております。義父上は領地で留守番ですけれど。私たちは今日は河船で来られるお客様のお迎えに参りましたの」


 運河が開通してから船の通行は大きく増えたが、閘門の時間待ちの為にア・オーやフィリポで一泊する者が増えてどちらの町も活況を呈し、商人や旅客も増えそれに伴い作業員も増えている。

 そう遠くない未来にはこういった領主家との交流も失われて行くのかもしれないと思うと寂しくもある。


「おーーい、船が着いたぞーー!」

 船着き場に大きな声が響く。

 引き綱に引かれて櫂を上げた大型船がゆっくりと桟橋に接岸し始めている。運河が開通してからこういった巨大な川船が増えている。

 河船の甲板には旅客たちが上がり珍しそうに岸を見下ろしている。

 その中にはお母様や父ちゃんやオスカルはいないようだ。


 桟橋から船の近くまで行くとアンの懐かしい声が聞こえる。

「オスカルさま、聞き分けなさいませ。船を降りればいくらでも雪遊びが出来ますから辛抱なさいませ!」

「ギャー! 嫌だー! 一番で降りるんだー!」

「オスカル! それ以上我儘ぬかすとぶん殴るぞ! それが嫌なら大人しくしろ!」

「父ちゃんがぶったー! お姉様に言いつけてやる!」  


 賑やかな声に私は自然と顔がほころんでしまう。私は舷窓に向かって必死で手を振り続けた。


【3】

 オスカルの奴は手を広げて待つ私の脇をすり抜けて雪の中にダイブした。そして迎えに来ていたルーカス君と二人で勝手にカマンベール邸に向かって駆けだして行ってしまった。

 可愛げのない奴め!


 私はお母様に頭を抱きしめられ、その頭を父ちゃんがワシワシと掻きまわす。

「父ちゃん! 髪型が崩れるだろう! お嬢様に何しやがんだ」

「へっ、なにがお嬢様だ。現役の女伯爵カウンテス様を荷物運びに使いやがって! ちっとは自分の身分を弁えろ」

「いてっ! 今どさくさに紛れて殴っただろう! バカになったらどうすんだ!」

「安心しろ、それ以上その頭は悪くならねえ」

「んな分けねえだろう。イヴァナみたいになったら困るのは父ちゃんだからな」


「イヴァナさんは元気のいい良い子ですわね。あなたの事がとても好きみたいで嬉しいわ。セイラ・ライトスミスに会いに行くって駄々を捏ねてジャンヌさんにグレンフォードに連れて行かれましたけれど」

「あの子は本当に…」


「セイラ、そのジャンヌさんですけれどもとうとう気づかれてしまいましたわ。あなたがセイラ・ライトスミスだってことを。セイラカフェでボウマン様から暴漢を投げ飛ばした話を聞いてしまったようなのです」

 ああ、頭の回転の速いジャンヌならウィキンズやグリンダとの係わりやセイラ・ライトスミスの年齢を繋げると直ぐに答えに至るだろう。

 いつまでも隠し通せない事は気付いていた。少なくともジャンヌには知っていて貰った方がこの先都合がいい。

 ゆくゆくはカロリーヌとオズマにも明かす事になるだろう。ファナは…、まあどっちでも良いや。ロックフォール侯爵も知っている事だし、いざとなれば彼が話をするだろう。


「それでねセイラ。ジャンヌさんからあなたにお土産を預かって来たわ。冬至祭の後にジャンヌさんがあなたの為に作ってくれた蜂蜜ジンジャークッキーよ。今までのお礼だから一人で食べて欲しいって」

 お母様の言葉と共にアンが私に大きな箱の包みを渡してくれた。


「それでは午後にお茶を入れてちょうだい。みんなで…一人で食べて欲しいと仰られたのならそうさせていただくわ」

 そう言って箱の包みをリオニーに渡した。

「そうなさい。あちらではわたくしとジャンヌさんで作ったクッキーを作る端からレオン様とオスカルと…ジャックさんとイヴァナ様に食べられてしまったのよ。今日もオスカルとルキウスには気をおつけなさい。きっと狙っているわ」

 イヴァナもだがジャックはもう二十歳を迎えるんだろう少しは大人になれよ。


 父ちゃんとお母様を迎えて昼食会がとられた。オスカルはルキウス君やケレスちゃんと一緒に聖教会教室に行ってしまって帰ってこない。

 多分聖教会教室で村の子供たちとお昼を食べるのだろう。

 その後は皆で領地運営や商圏拡大について簡単に話をしてお開きとなった。


 そして今私は自分に宛がわれた客室でお茶にしようとしている。

 メイド達三人の給仕でジャンヌから貰った箱の蓋を開くと大きな蜂蜜ジンジャークッキーが三枚入っていた。

 三つともすべて違う顔だ。

「セイラ様のお作りになるクッキーの顔とは少し違いますね。でもどなたの顔なので御座いましょう?」

 アドルフィーネがそう言いながらクッキーをお皿に並べて行く。


「たっ…多分アドルフィーネたちが知らない人の顔よ…」

 そう答えながら私の声は震えていた。

 そう、アドルフィーネもリオニーもナデテも知らない、誰も知らない顔だけれども俺(私)はとてもよく知っている。忘れるはずのない顔だった。

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