第27話 計算尺の反響
【1】
「カマンベール子爵領に温泉が出てからもう二年になるんだよね」
冷たい寒風に晒された甲板の上でつい口からそういう言葉が零れてしまった。
オーブラック州のルーションの砦は雪が積もる前に何とか宿舎などの施設の整備、建築は終了した。
それに併せて海から燃料や食料などと共に第一陣の士官候補生や幼年兵が送り込まれてきており、今は座学の真っ最中である。
私はこの度完成した対数表を基に父ちゃんが製品化した計算尺の売り込みにやって来ていた。
今回完成した対数表は小数点以下三桁までだが、ニワンゴ司祭はさらに精度を高めたい様で最終的には五桁まで算出したいようだ。
それでも嬉しかったのだろう。
この冬はハウザー王国に帰りドミンゴ司祭に報告をして冬至祭を過ぎるまで向こうにいる予定でサンペドロ州に帰って行った。
そして私の手の中にはライトスミス木工所が全精力を傾けて作った渾身の作品である計算尺が有る。
検品を済ませた初期ロット五十本を持って真冬のオーブラック州に乗り込んだのだ。
高等学問所から天文と地理の測量技術に長けた講師も四人同乗している。
と言っても甲板に出ているのは私や船員だけなのだけれど。
高等学問所の四人は船室で船酔いで喘いでいる。
乗船早々に計算尺を見てしまい、私が止めるのも聞かずに船室で計算尺を使った計算を始めたからだ。
揺れる船室の中で緻密な計算尺の目盛りを見つめていればどういう事になるかは想像に難くない。
船に慣れればどうという事も無いのだろうが、それ迄は士官候補生たちも同じ目に遭うのだろう。
これは海軍軍人養成の為の当面の課題でもあるな。
「ウフフフ、あちらに見えるのは最新型のガレオン船で御座いましょうか。噂に聞いてはいましたが見るのは初めてで御座いますよ。素敵で御座いますわ、ねえセイラお姉様」
エレーナ・ル・プロッション子爵令嬢は寒さもものともせず甲板の手摺にしがみついてドックの中に係留されている船を一心不乱に見つめている。
初めての外洋船のはずなのに船酔いとか微塵も感じさせない。
そう言えば私は船酔いした事ないなあ。この体は三半規管が丈夫なんだろうか。
ルーションの砦は海上から見ると小さな港町の様相を呈していた。
倉庫や建築途中のドックが立ち並び、大型の移動式起重機も据え付けられている。そして離れた砦の周辺にも候補生用の寮や作業員用の宿舎などが立ち並んでいる。
「バッキャローが、この程度で吐いて船乗りが務まると思ってやがんのか。さっさと走れ! 働きやがれ!」
港に船が入港するとグレース船長と船員たちが船酔いでヘロヘロの幼年兵を追い立てながら舫いを架けいる。
「オエー、ゲロゲロ…。くっそう、こんな事じゃ王立学校の頭ははれねえ。私はグレース船長みたいになるんだ。海軍王に私はなる! オエー」
グレース船長の横で気合だけはバッチリの船酔い娘が盛大に海に向かって虹を吐いている。
私はイヴァナ・ストロガノフ子爵令嬢と同じような蒼白の顔でフラフラの講師四人を引き連れて下船の準備にかかっている。
下船すると私は船舶オタク娘と船酔いで女のくせに海軍の王に成りたがっている勘違い娘を引き連れて、グレース船長と講師と共に士官候補生の講義棟へ向かう。
講師たちを引き連れて航海士の養成授業が行われている兵学校の校舎に入ると、講義室は種族性別年齢がバラバラながら強烈な熱気に包まれていた。
講義をしていたのは高等学問所出身でシャピで船乗りをしていた航海士だった。新設の海軍に引き抜かれたのだが、この引き抜きではシャピの商船団と一悶着あって大変だったのだ。
自分の船団を作ろうと上級船員を養成していたグレース船長の秘蔵っ子で、グレース船長には優先的に計算尺を回す事でどうにか納得して貰った。
計算尺は当面国家機密扱いとなる。
先ずは海軍の航海士や水先人に優先的に供給される。そして騎士団は近衛騎士団と王都騎士団の測量兵に数個が配布される予定だ。
内務省の天文官や測量技師よりは軍事関係者が優先というのは不満も有るが特許の優位性を保持する為にしかたがない。
今回は開発、供給元の権限で、優先配布先に開発者のいる高等学問所と王妃殿下の肝いりで設立した国策会社のラスカル西部航路組合にもいくらか回してもらう事が出来た。
その第一号がグレース船長である。
シャピからルーション砦までの短い航海の間ではあるが、彼女はずっと甲板で四分儀と海図と計算尺で航路計測をやり続けてきた。
極寒の寒さにも船の揺れにも一切動ずることなくだ。
【2】
「暖けえ部屋でぬくぬくと、船乗りの風上にも置けねぇなあ」
講義室に入るなり開口一番グレース船長が吠える。
その声に驚いた生徒や講師が一斉に口を噤んでこちらを見る。
「姉御、そいつぁ厳しいぜ。ひよっ子の候補生を連れて航海訓練はさすがに技量的に無理ってもんだ」
一番に口を開いたのは講師の青年だった。
グレース船長の下に居ただけあって彼女の扱いは慣れているのだろう。もともと高等学問所の学生だったがグレース船長の活躍を聞いて船乗りになって一旗揚げようとシャピにやって来て船員になったのだ。
「いっぱしの口を利くじゃねえか。出世に目が眩んでホイホイ海軍に移りやがった軟弱やろうがよう」
「勘弁してくだせえよ。姉御には悪いと思ってるんだ。でもそのお陰で優先的に姉御の船団には計算尺を回して貰えるんでしょうが」
「そいつぁてめえのせいじゃねえだろうがよう。あれはアタイがセイラ様の一番信用の置ける船乗りだからに決まってんだろうが。そのアタイが今日は計算尺と四分儀の使い方を教えに来てやったんだ。有難く思いな」
グレース船長の啖呵が続く。
そのタイミングで私はイヴァナとエレーナに合図して計算尺を配らせた。四人の講師も生徒の集団の中に入って行く。
「これが新型の計算機よ。有効数字三桁までの掛け算と割り算、そして三角関数と二と三の累乗と平方根、立方根の計算が可能よ。この後講義が進めば指数や対数の理論とその計算方法も学習する事になるわ」
私の説明に全員から感嘆の声が上がる。
「セイラ様! 指数や対数も計算できるのですか?」
高等学問所出身の学生が興奮に顔を輝かせて質問してくる。
「もともと対数理論を基に作られた物よ。理論上可能だけれど今は尺の製造が追いついていないの。当面は乗除と累乗それから三角関数迄だけれどね」
「てめえら。これは授業用の貸し出し品だ。高価で貴重な物だから決して雑に取り扱うんじゃねえぞ。傷でもつけてみやがれその指明日からねえと思って扱うんだぞ!」
グレース船長のその啖呵を合図に計算尺を使った測量と海図作成の講義が始まった。
船員上がりの候補生と高等学問所や聖教会教室出身の数学好きの生徒たちが交じり合って、種族、性別関係無しに教え合いながら授業が進み始めている。
「すげえぜ、こいつはすげえぜお姉様。これならアイザック先輩たちより早く計算も出来らぁ。これで幾何の頭を取ってやるぜ」
イヴァナは直ぐに計算尺にのめり込み始めた。
さっきは王に成るとかほざいていなかったか?
「やはり航海にも船の設計にも数学は必要ですよね。私も音楽は止めて幾何か天文に移りますわ」
エレーナは士官候補の学生たちの様子を見ながら何か決めたようだ。
えっ? なんでこの二人が一緒にいるのかって?
勝手について来たのよ。
エレーナは当然船に乗りたくて船を見たくて。イヴァナは新設海軍は種族や性別に制限を設けていないと聞いて。
そしてこいつらののめり込みようは間違いなく、王立学校を辞めて海軍士官養成所に移るとか言いだすに決まってる。
好き勝手言うのは自由だけれどそのせいで後から叱られるのは私なんだから。
「アタイもこんな時期があったなあ。微笑ましいよなあセイラ様」
グレース船長は満足げに測量計算に没頭する候補生たちを見ているが、私は頭を抱えたくなるくらいこの二人を連れて来た事を後悔している。
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