閑話6 福音派留学生(3)
☆彡
カンナとルイージ。
それがルクレッア・ペスカトーレ侯爵令嬢が二人の農奴の子供に付けた名前である。
ルイージは左手に障害が残り上手く動かせなくなった。腕は上がるが掌から先はシッカリと動かす事が出来ない。
そしてカンナは事故の恐怖と母を失った不安からか兄のルイージの側を離れようとしないのだ。
その二人にはルクレッアがつきっきりで世話に当たっている。
妹のカンナが六歳、兄のルイージが八歳らしい。契約書にはそう記載されていた。誕生月すらわからない上、何より本人たちが知らないのだから。
ルイージはこの夏にルクレッア・ペスカトーレ侯爵令嬢が洗礼を授けた。カ
名前が無い者に洗礼を授ける事は出来ない。
だから名前を持たない農奴に洗礼を受けた者はいない。農奴に無用な知恵を付けぬ為に、無用な力を持たせぬ為に。
そもそも教導派でも福音派でも無用な知識は原罪であると説き、特に福音派は原理主義なので農奴への洗礼は消極的で名前を施してまで洗礼を行う事はしない。
ルクレッアたちは受戒は受けていないが、名目上は一年修業を積んだ修道女見習いなので洗礼を施す資格は持っている。それに他国民で厳密には清貧派聖教会信徒を名乗っているので神学校側もその洗礼を止める事は出来なかった。
何より二人の農奴はルクレッアの持ち物なのだから洗礼の喜捨を払えば聖教会は誰も拒否する事は出来ないのだから。
「ルイージは魔力が豊富なのですよ。それに二人とも素直で賢くって、もう文字も数字も覚えて足し算も引き算も出来るのです。ルイージは今は九九を暗記中なのですから」
ルクレッアは授業の時間以外はほぼつきっきりで二人の農奴に学問や礼儀作法を教えている。
お陰で二人もルクレッアにとても懐いている。特に幼いカンナはルクレッアにくっついて離れようとしない。
ルイージは事故発生時前後の記憶は殆んど無いが、母の死の瞬間の事は鮮明に覚えている。炭になったテレーズの指の事やルクレッアやシモネッタの叫び声も鮮明に覚えている様だ。
後々それに至る状況を聞かされた事からラスカル王国の留学生の一団を慕っていると言うよりも崇めていた。
その為ルクレッアの要望に応えようと必死になって学んでいる様子が見て取れる。
ルクレッアも留学生としてこの地に追いやられた悲嘆と実家のペスカトーレ侯爵家への不信に潰れそうになっていた心の支えを得たようだ。
三人がお互いに支え合うように寄り添っている様は少々歪ではあるが、お互いに安定を取り戻し笑顔が見れるようになってきた。
☆☆彡
テレーズの右の人差指は爪から先が無くなってしまった。
お陰でペンが上手く握れない。
指先くらいと思っていたが、思っていた以上に不便な事が多くなった。
それにあの聖教会に集まっていた市民は一部始終を知っており、テレーズの治癒治療は王都で評判になってしまった。
今まで通り週に一度の神学生の治癒活動は続けているのだが、そのテレーズや神学校の生徒の顔を一目見ようと信者が押し掛けて来るのだ。
特にテレーズは信仰対象のように崇められるのだが、自分はただの聖導女で信仰の対象ではないのだ。さすがにそれだけはやめて欲しいと思っている。
自分はただの聖導女だと言っても奥ゆかしいと褒め称えられ、治癒治療に行く聖教会も信者が集まるので放置されて聞き届けてくれない。
テレーズを慕う留学生や神学生たちが人の壁を作って患者以外を寄せ付けないのは良いのだが、集まった信者たち相手に彼女の事を褒め称えるのも勘弁してほしい。
何より最近はケインが過保護なくらい構ってくる。常にテレーズの後ろに付き従って立っているのだ。
…それ自体は構わないのだけれど、周りの生暖かい視線はさすがに恥ずかしいものがある。
二年前のケイン殺害未遂の件はこちらでは知られていないが、もしも何処かから話が漏れればきっと尾ひれがついてハウザー王都中に広がってしまう。
ラスカル王都でもクロエの事件に絡めて噂になったのだから。
なにより信者よりも神学校の生徒の視線が堪える。十三歳の多感な年頃だ。そう言った夢見がちなロマンスに興味を持つ噂話に敏感な年頃なのだ。
勝手な妄想が少女たちの間で独り歩きしている。
秋になって新入生が入ってからは尚更である。
生徒からの要望が多い為、この秋からは神学校で週にもう一枠治癒治療の講義の時間を設けて貰えた。
評判を聞いて三年生の中からも参加希望者が出た事と、エヴァン王子達の留学期間に合わせた交換留学の為エレノア王女殿下たちはテレーズも含めて一年後に帰国する事になるからだ。
神学校の一部の講師の間でも一年でグレンフォード治癒院の治癒技術の基礎だけでも習得させたいという人たちがいるのだろう。
聖教会の実習は今迄のメンバーで行うとして、新規枠の受講生についても一年後にはグレンフォードで三級レベルの治癒術師として育てたい。
そう思って受けたのだが思った以上に大人数になってしまった。
今迄の二年生に加えて一年生もほぼ全員参加し、三年生も八割がた参加する大講義になってしまったのだ。
当然これまで通りの
シャルロットを始めとしたセイラカフェメイドの指導の下に、生徒たちのお付きのメイドが自身の仕える主人の為に
セイラカフェのレシピを知る事が出来る上、なかなか手に入らないライトスミス商会の食材も有る。
参加している生徒たちの半分以上はこの
そしてその場で話される話題は以前ケインが語った瀕死の自分を救ってくれたテレーズの話だ。
刀傷を負って死にかけたケインを命を賭して連れ帰り夜を徹して治癒を続けたテレーズの利他の心に感じ入り近衛騎士から一聖堂騎士として彼女を守り抜く決心をした逸話の詳細だ。
ケインは笑ってそれ以上は話さないがテレーズの指の話と相まって二人の関係を妄想する格好の話題を提供している。
「なんて素敵な。聖女様と聖騎士様の様な物語では有りませんか」
「ケイン様のケガもきっと民や聖者様を守るために立ち向かわれて負った手傷に違い御座いませんわ」
「もしかすると魔の者と対峙したとか」
「さすがにそこ迄は如何かと思いますが、きっとそれに近い事があったのでは御座いませんか」
少女たちの勝手な妄想はどんどん膨らんでいる様だ。
「マルケル様は王立学校でもご一緒だった時期が有られるのでしょう。何かご存じでは無くて?」
「ウーム、まあ知らない訳では有りませんがそれは…、おっとケイン様が睨んでいるので要らぬ口は挟まぬように致しましょう」
「ずるう御座いますわ。少しくらい教えていただけても」
「それは王子殿下の求愛を断って平民出の近衛騎士を選んだ子爵令嬢が…」
「マルケル様! もうそれ以上は…」
「しかしケイン殿は親友のお二人を助ける為に、テレーズ様も…」
「マルケル、明日は少し特訓を厳しくせねばな」
「ひどいですぞケイン殿。照れくさいからって俺に当たられても」
「マルケル様、もう本当にご勘弁くださいませ」
「ああああ…ごめんなさいテレーズ様。もうこれ以上は申しません」
神学校生徒たち全員の物欲しそうな視線の中マルケルは口を噤んだ。
「シモネッタ様は何かご存じでは無いのですか」
「私はここに来るまで街で暮らしてたので知らないっす。何より王女殿下も他の皆も予科に入る前の事っすから…」
オーバーホルト公爵令嬢の問いにシモネッタは答えつつ、ラスカルの王都でそんなお芝居を見たような記憶があるなあとなんとなく思っていた。
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