第25話 ダッレーヴォ州への旅(1)
翌日執務室に招かれていたのはアントワネット・シェブリ伯爵令嬢だけであった。
実は前日の王都大聖堂の会議の場で話の内容から、ペスカトーレ枢機卿はジレンマに陥っていたのだ。
アントワネットの主張は極めて理に適っている。
かと言って今の贖罪符の販売は聖教会に大きな利益をもたらしている。特にあの憎い子爵令嬢のお陰で激減した治癒施術の喜捨を補って余りある利益をもたらしているので切る訳にも行かない。
しかしこのままでは清貧派に教皇庁批判の口実を与え続ける事になり、一般信徒の支持を失ってしまう。
平民が何を言おうがたかが知れた事ではあるが、その声に押されて清貧派に鞍替えを狙う下級貴族が増えるのが問題である。
下級貴族など碌に信仰心など持ち合わせていない。利に聡く目先の欲に目が眩んで、最近景気が良い清貧派領地に秋波を送っている者も少なくない。
清貧派に与する機会を伺っている領主貴族に取って平民の主張に乗って改宗と言うシナリオは魅力的かもしれないのだ。
「ペスカトーレ枢機卿様、お聞き致したい儀が御座います」
「良い、申してみよ」
「枢機卿様はお父君の教皇様とご子息のジョバンニ司祭様のどちらをお選びになられますでしょうか」
「アントワネット、何が申したいのだ? 子の立場として何をおいても親を立てるのが息子の務めであろう」
「その様な綺麗ごとのお話は不必要で御座います」
ペスカトーレ枢機卿はムッとした顔をしてアントワネットを一瞥すると言葉を続けた。
「何が申したい。儂は教皇庁に二心は持っておらぬぞ」
「そんな事を聞いておりません。私もペスカトーレ侯爵家に嫁として入る身。身内にまで綺麗ごとを通す必要は御座いませんでしょう」
「小賢しい物言いだな。夫になるジョバンニを優先しろと申すのであろう。別に替えは幾らでもおる。あ奴の地位は絶対ではないぞ。しかし教皇は一人じゃ。すぐには替えは聞かん。ならば教皇猊下を優先すべきであろう」
「そういう事は私も心得ております。ならば教皇猊下の替えが必要になった時にそれはどこから調達いたしましょう? 教皇猊下はお一人でも枢機卿様は幾人もいらっしゃるのですから。それも全てが教導派と言う訳でも御座いませんでしょう」
「ならばこそ教皇猊下の信の篤い者が最側近になると言うものであろうが」
「教皇猊下がご存命の間ならそうで御座いましょう。亡くなってしまえば死者に忠義立てをする者は愚か者としか申し上げられません」
「不敬な、儂に教皇猊下に毒を盛れとでも申したいのか」
枢機卿は咎めるというよりもアントワネットの意図を測りかねているようだ。
「いえ、ただ教皇猊下が非難の対象になると言うなら切って捨てるべきかと。息子であろうと孫であろうと関係なく、保身のために詭弁を弄する者がおれば正すべきかと。忠義立てをしてもこの先死に往く者では忠義のし甲斐が御座いません」
「其の方の申したい事はよく理解した。だがな、儂らにも立場がある。お前たちのように身軽に動ける訳では無いのだ。贖罪符の件については今からの掌返しは、更に印象を悪くするのではないか? 平民どもに付け入る隙を与える事になるのではないか?」
「それも理解しております。ですが方法はあるという事です」
「それが質問の意味か? 教皇猊下を追い落としてジョバンニを選べと?」
「それに近い事では御座いますが、父君の枢機卿猊下にご承認いただけなければ進める事は出来ませんので」
「意味深な事を申すな。興が湧いた、乗ってやるからお前の考えを申してみよ」
「有難うございます、枢機卿猊下………」
アントワネットの説明に始めは驚愕の表情であったペスカトーレ枢機卿は徐々に下卑た笑みを浮かべ始めた。
「まさかその様な事を…、相分かった。これからもジョバンニの妻としてあ奴を支えて行ってくれ。其の方がおればジョバンニの立場も盤石であろう」
【2】
数日後アントワネットはダッレーヴォ州に在った。
王都から雪の積もる中を馬車に揺られて最北の州までやって来たのだ。
華やかな王都を出て北西に進めどもどの領地も冬の雪に閉じ込められて陰鬱な光景が広がるばかりだ。
白い雪は領地の薄汚い農村や平民どもの家々も覆い隠してくれる。
アントワネットにとっては雪のベールに覆われた街道筋は見たく無いものを隠してくれる恰好の風景である。
それでも薄汚い平民が雪の中をウロウロとしている。春や夏ほどではないが屋外を出歩く農民や旅の商人もいる。
「薄汚い、折角の純白の雪が穢れてしまうわ。なにあそこの薄汚い者たちは雪の中で何をしているのかしら。大人しく家で籠っていれば良いものを」
アントワネットの大きな独り言が聞こえたのだろう、御者席から声がした。
「お嬢さま、あれはイラクサの根を掘っているのでしょう。イラクサの根っこは食えるのですよ」
「まあ、なんて野蛮な。イラクサなんて荒れ地に生える雑草でしょう。そんな物を食べるなんてそれではケダモノと同じでは有りませんか」
「この時期はイラクサも葉は落ちてしまって喰えんですからなぁ。ポロ葱やホウレン草ももうこの季節では生えぬでしょうし」
「イラクサの葉も食べるのですか? あんなもの手がチクチクしてかぶれてしまうから触るのもごめんだわ。それを食べるなんて、ゴミを食べる様なものではありませんか」
「まあこの辺りの冬は厳しいですから生きる為には食えるものは何でも食うのでしょう。冬の貯えの有るものはカブやビートを雪の畑に埋めて食ったり、キャベツを雪に埋めたり塩漬けにして乗り越えるもんですがなあ」
「という事はあの者たちはその備えを怠っているという事では無いですか。怠惰の罪で救貧院に送られれば…。これもあの忌々しいセイラ・カンボゾーラのせいという事ね」
「怠惰かどうかはともかく、この辺りは収穫も減っておりますので食詰めた農民も多くおるようですからどうかご寛恕の程を」
御者が取りなしの言葉をかけて話はそれでいったん終わりになった。
アントワネットは今の言葉を頭の中で反芻する。
救貧院が廃止になりその枷が外れ分不相応な賃金を与えられるようになった平民どもの怠惰が元凶だと思うのだが、起こってしまった事を今更どうこう言っても始まらない。最近では近隣のヨンヌ州やアルハズ州で農村からの小作人の脱走も相次いでいる。
領主も農民を減らして収益を上げる転作や畜牛に力を入れ始めているが、農民が減り過ぎると領地経営が立ち行かなくなる。
小作人の命がどうなろうと知った事ではないが、領主の持つ広大な農地で働く小作人が居なくなるのは大きな問題だ。
少なくとも小作人の流出を止めこの土地に縛り付けて働かせるためにはある程度の歩み寄りは必要だろう。
ただ教導派の領主たちと諍いを起こすのは得策ではなく、何よりその譲歩を強制する立場でも無い。
また領主たちもそんな要求など飲む事は有り得ないのだから。
ならばラスカル王国聖教会教導派のトップであるペスカトーレ枢機卿家がとれる行動とは何が有るだろう。
そんな事を考えながら馬車の覗き窓から外を眺めていると手前の森の入り口当たりで兵士らしきものに囲まれた二人の子供の人影が見えた。
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