第17話 診療所(2)

【3】

「病人がこんな我が儘を言ってよいのかしら」

 そう言ってレスターク伯爵夫人は微笑んだ。

「甘い物は滋養も豊富なのですよ。さすがにお体に障りますから沢山はお出しできませんが」


「宮廷魔術師団の治癒術師からは不味い油の浮いたスープを無理やりに飲まされて、ミルクでふやかした白パンを喉に押し込まれて。息が詰まって本当に死にかけて吐いてしまったのよ。それが光の聖女様の治癒のお陰で食事も喉を通るようになったのだもの」

 そう言いながらひたひたに柔らかくしたフレンチトーストを小さく切って口に運ぶ。


「看護師殿、王宮治癒術士たちが出すスープですら受け付けなかった母上が何故この菓子を食すことが出来るのでしょう」

「あらあら、あなたは光の神子様の奇跡が分からないのかしら」

「それは…母上の仰る通りかもしれませんが」

「セイラ様はせめて食事が出来る様にとその場所の病根を焼いたのですよ」


「いえ、ですから何故その部分がという事で」

「もうあなたは理屈っぽいのだから。神子様もお考えが有っての事でしょう。きっと滋養を採る事を優先されてのことでしょうね。でもそのお陰でこんなに幸せな時を過ごせるなんて」


【4】

 入院した後二日の間は胃への直接の栄養液補給を行って体力の回復を待った。そして昨日、レスターク夫人の食道と胃の腫瘍を幾つか焼き切った。

 ジャンヌにもお願いして夜中にこっそりと癌の闇魔法治癒も行って貰ったが夫人の体力が衰え過ぎて体への負担が大きすぎたため抜本的な治癒は無理だったのだ。

 ジャンヌの治療を継続して受けられればもう少しは命を長らえる事が出来るが、そうなると今以上に教導派の横槍が大きくなるので極秘裏にしか治癒が出来ない。

 それでもジャンヌのお陰で食制限はあるものの刺激の無い柔らかい物なら少しは食べられるようになった。


「光の神子殿のお陰で本当に妻は穏やかな日を送れそうだ。心から礼を申し上げる」

 レスターク伯爵は私の手を取って頭を下げた。

 でも私(俺)にとってはレスターク伯爵夫人の事を他人事とは思えないのだ。

 前世で(俺)と娘の冬海の為に必死で癌と闘って死んでいった妻と重なってしまう。

 娘の為に足搔き続けて逝った妻を思うと、せめてこの伯爵夫人には穏やかに終末を迎えさせてたあげたいだ。


「生きる目的や喜びがあるならば少しは命も長らえる事でしょう。それならばせめて美味しいものを食べて大切な人との時間を取る事が、それが出来るならそれを叶えて上げたいのですよ」

「それが食道や胃の治癒という事ですか」

「食べる事は生きる事、美味しいと思える時間は人を幸せにすると思うの。大切な人達と、愛している人たちと食べる食事は格別だと思うの。だから…お二人もせめて夕餉は奥様とご一緒していただけないでしょうか」


 幸いロックフォール侯爵家の協力を得て診療所の入院食は栄養豊富な物がハバリー亭からの派遣料理人によって作られている。

 グレンフォードやフィリポの治癒院で研究されている栄養学に基づいた食事を治癒術士が指導しているので、他の入院患者にもとても評判が良い。

 一階の薬局の隣りはロックフォール侯爵家直営の健康食品に特化した販売所が設けられて、裏の竈で焼かれる全粒粉パンの香ばしい匂いが立ち込めている。


「勿論だ。夕餉と言わず、空いた時間はワシも息子も時間が許す限り一緒に食事をとろう。嫁いだ娘たちも来てくれるようだから共に食事をとりたい。治療の邪魔にならぬ様にするからお願いしたい」

 これから痛みや苦痛がさらに増えだすだろうからその対処も考えなければいけない。


「これから奥様の苦痛も増してくるはずです。痛みや苦しみを乗り越える為に私達も努力しますが、ご家族の心の支えはとても重要です。楽しい思い出を奥様に贈ってあげて下さい」

 これは私(俺)の心からの願いだ。


【5】

 レスターク伯爵夫人の上品な笑い声が聞こえてきた。

 ベッドメイクに来た看護師の三級治癒術士と何やら話している様なのだ。

「何ですか義父上、こんなケダモノだらけの場所に義母上を押し込めて。教導派貴族の者に知れたら当家の恥になりますぞ」

「あなた、お父様はお母様の為を思ってこの診療所に」

「それはそうなのかも知れんが教導派としての体面と言うものがあるだろう。こんなライ麦の入ったパンや燕麦の粥なども」


「義兄上は母上の笑い声が聞こえぬか? 父上は母上の穏やかな最期を過ごせることを願っての事だ。食事も旨いでは有りませんか、それに素材もロックフォール侯爵家の物で粗末でも無い」

「死に至る者を苦しめる王宮治癒術士と穏やかに過ごさせようとする獣人属の治癒術士とどちらを選ぶかと問われれるてワシは躊躇う事無くこちらを選んだ。屋敷で苦しむ妻の顔は見たくない。事務的に治癒を進める宮廷治癒術士より寄り添ってくれる獣人属の治癒術士を選んだだけの事だ。伯爵家の体面よりワシは妻の笑顔が好ましい」

「しかし…、いや申しますまい。義父上の決断を尊重いたしましょう。義母上だけでなくみんなの穏やかな顔を見れば否を唱える事は出来ませぬ」


 いつしかレスターク伯爵家の面々は親類や縁者も入れ替わりで訪れて夫人と食事を共にする様になった。

「私は食べられませんが、これは皆様への差し入れですわ。看護師のお嬢ちゃんからも了解を戴きましたからフスマのクッキーを戴いて下さいまし」

 こうして午前や午後のお茶の時間にはレスターク夫人は家族と車椅子で大部屋に来て入院患者たちと歓談したり、温めたミルクを飲んだりして過ごす事も頻繁にあった。


 思ったよりもレスターク夫人が痛みを訴えないのはやはり家族と過ごしている時間のお陰かと感慨にふけっていると思わぬところから連絡が来た。

「セイラ様、入院したての頃は柳やマツヨイグサでも効き目が有ったのですが、最近ではヒヨスやイヌサフランでも効果が薄まってきております」

 どうもビーチェが薬局で鎮痛剤を処方してくれていたようなのだ。


 ヒヨスやイヌサフランも毒物で処方を誤ると危ない物だそうだがそれでも、ビーチェたちの知識と技術で症状に沿った処方をなされている。

 だがそれも限界に近付いているという事だそうなのだ。


「この先は少し危険ですがベラドンナやマンドレイクを処方する事になります。秘伝の特別な痛み止めの薬もあるのですが、それを使うと眠っている時間が増えてその後はもう長く持たないでしょう」

 そう言われればレスターク夫人の食欲も日に日に衰えて行き、顔色も悪くなり痩せて来ている。

 見ているだけで体力が衰えて来ている事は良く解る。


 気の毒だがもう長く持たないのだ。

 私(俺)はこの診察結果を家族に告げた。

「覚悟は出来ておる。それならば妻の苦痛を長引かせる治療より苦痛を和らげて穏やかに逝かせてやりたい」

「神子殿、俺は母上が穏やかに最期を迎えられるためにここに来たのだ。その薬剤師殿の決定に異論はないぞ」

「義母上の姿を見ればそれが最善だと思う。なあお前も実母が苦しむのを見たいと思わぬであろう」

「ええ、あなたに理解して頂けて嬉しい限りです」


 レスターク伯爵夫人の姪や甥たちも来ており、皆泣きながらも微笑んでその決定を承諾してくれた。

 その日から一週間、これまで以上にレスターク家の人々は頻繁に診療所にやって来た。


「奥様、本日より処方するお薬を変えます。眠気が増す事が多くなりますがご心配なさらずに。私どもが付いております」

「まあ、看護師のお嬢ちゃんありがとう。もうそろそろなのね。自分の身体ですもの、長く持たないのはもう判っているわ。ほらほら、泣かないで。私はここに来れてとても幸せだったわ。何よりここに連れて来てくれた家族に感謝しているの。とても幸せな人生だったわ」


 その翌日からレスターク伯爵夫人は夢うつつの状態で過ごす事が多くなったが、幸せそうな寝顔は消える事が無かった。

 そして集まった家族みんなに看取られて微笑んだままレスターク伯爵夫人が逝ったのは、二日後の事だった。

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