第16話 診療所(1)
【1】
診療所の薬局にはベアトリスの姉のビーチェと言う名の女性が弟のベアトリクスと言う少年を連れてやって来た。
ビーチェは仏頂面のベアトリスと違いにこやかな笑顔を貼り付けた様な女性だった。ただその笑顔に諦めの様な厭世的で達観した様な気配が漂うのは何故だろう。
弟はベアトリスに似て表情に乏しく遠い目をした少年だった。
この少年もあと数年でベアトリスの様になって、いつしかあの姉のビーチェのように達観した笑みの貼り付いた大人になるのだろうか。
薬局の壁の一面は天井まで届きそうな薬箪笥で埋められていた。
マンドレイク、ベラドンナ、ヒヨス、
乾燥したキノコもあるし…これ絶対テングタケだよね。こっちには
いやそれだけじゃない。重金属系の化合物らしき鉱物がかなりある。
「絵具や染め物の顔料に使用いたしますので…」
薬局で絵具や顔料なんて売らないだろうが!
「ここは薬局で、仕事は健康になる薬を処方する事だからね」
「ええ、心得ております。アニスやセージやローズマリーなど裏の庭で栽培できるものも含めてほぼ全てそろっておりますし、クローブやサフラン、それにジンジャーもアヴァロン商事様から調達出来ました」
…何か既知感の有る名前が出ているが、カレーが作れるくらいに十分な生薬はアヴァロン商事で揃えてある。
私にスパイスの知識が有ればカレーが作れるのに…。
どうも治癒魔術が有るお陰でこの世界の内科治療や薬学は遅れているようだ。魔力を流して自然治癒力を高めるのが治癒治療で、患部と思われる場所に魔力を流すだけの方法が主流だったのだから。
内科医療も魔力をMRIのように使用して身体をスキャンするというジャンヌの発想でこれから変わって行くのだろう。
しかし薬学は博物学の概念は未だ無く、かつての中国や日本の様な本草学の概念も不十分だ。
まあ薬種も充分に揃っているし毒物の匙加減も心得ているあのベアトリスの姉のビーチェがいるのだから薬局は今の技術範囲なら万全だろう。
しかし本命は治癒術士だ。
治癒院で修行済みという事は大前提だ。グレンフォードとフィリポの治癒院では急遽治癒術士認定書の発行を決定し、一定技量の治癒術士に三級から一級の三段階の認定を行っている。
今回は一級治癒術士である事、そして獣人属である事を必須条件としているのだ。
清貧派領地ならともかくここは王都である。
教導派の貴族たちに清貧派の権利を獣人属の人権を認めさせるための一手なのだ。
治癒施術なら治癒院出身の獣人属と言う評判を確立するのだ。
少なくとも治癒施術に於いて獣人属は人属と何ら劣る事が無いと周知するのだ。
【2】
南部グレンフォードの治癒院から各属性四人の修道士がやって来た。
残念な事にフィリポの治癒院からは派遣できる一級治癒術士がいないのだ。一級職が居ない訳では無いが、成立の過程でシェブリ伯爵領のロワール大聖堂から移って来て改宗した治癒術士が多いため、獣人属の上級者がまだ育っていない。
それでも三級の修道女見習いを看護師として四人呼んで修行を積んで貰うようにした。王都には今アナ司祭とカタリナとキャサリンの二人の聖導女(王族付となって出世したのだ)が、何よりジャンヌと私がいる。
法律が施行されて正式に還俗治癒術士が誕生するまでの繋ぎであるが、技量向上にうってつけの環境となると言って出立時はかなり羨まれたようだ。
これでどうにか診療所の開設にこぎつける事が出来た。
派手な宣伝はしないが、ゴルゴンゾーラ公爵家とロックフォール侯爵家の聖堂にやって来る患者の一部はこの診療所を紹介されて移って来る者がそこそこいる。
外来診療は今は投薬治療を主体として、治癒術師の診察による病気の特定と安価な薬草の処方を行っている。
建前上は魔術による治癒は行っていない。患部の特定だけだ。
しかし重症患者は別だ。診療所の三階は入院が出来るようになっているのだ。
一部屋に二列八台のベッドを並べた大部屋が一つと集中治療室や伝染病の隔離室代わりに使う個室が二つ。それ以外は全部空き部屋だが、それも認可が下りればすべて病室にする予定だ。
そしてその重症患者用の大部屋にはすでに四人の入院患者がいる。
王宮の中堅官吏の男性は胃潰瘍で、夏の王妃殿下の離宮での診療を受けて好転したのだが、その後診療が受けられなくなって病状が悪化し、ゴルゴンゾーラ公爵家の聖堂にやってきてここに入院する事になった。
商家の旦那さんは狭心症の発作でロックフォール侯爵家の聖堂に担ぎ込まれてそのまま入院する事になってしまった。
清貧派の宮廷貴族の男爵様は執務中の大量の吐血で倒れて直接ここに運び込まれた。食道静脈瘤が破れたようだ。
最後はレスターク伯爵夫人と言う初老の上級貴族夫人だ。今は集中治療室に入っている。
個室に居るのは上級貴族だからと言う訳でも唯一の女性だからという訳でもは無い。末期ガンなのだ。
この人の事はは良く覚えている。
夏の事件の時にジョン王子が仕立てた馬車で王宮聖堂から運ばれてきた女性で、私たちが簡易ストレッチャーで病室まで移動した。
診察の結果はガンが全身に転移していて手に負えない状態だった。
幾つかあった物の内、大きな腫瘍を二つ取り除いたが、それ以上は体力が持ちそうになかったのでそこで治療は断念した。
それでも術後にささ身肉と押し麦の粥を食べる事が出来たのがことのほか嬉しかったようでフィディス修道女やレイチェル修道女の手を取って涙を流して喜んでくれた。
そして帰りは二人の修道女に手を引かれながらも歩いて馬車に乗ることが出来たのだ。
ロックフォール侯爵家からレイチェル修道女に連れられてやって来たレスターク伯爵夫人はそのまま診療所の集中治療室に入った。
ロックフォール侯爵家から呼び出しを受けて診療所に行った私は、付き添いでやって来ていたレスターク伯爵とその長男に余命はそう長く無い事をハッキリと告げた。
「冷たいようですが手の施しようが有りません。この病は体に治癒魔力を流すと病根も活性化してさらに悪化するのです」
「それは解っている。王宮治癒術士隊の治癒治療を受けるたびに妻の病は悪化していったのだから。だが王妃殿下の離宮の…光の神子殿の治療を受けてこの二月あまり妻は目に見えて元気になった」
「押し麦の粥をあんなに嬉しそうに食べた母を久しぶりに見たのだよ。屋敷のベッドで苦しんで死ぬくらいなら、ここでなら少しは穏やかな時間を得られるかと連れてきたんだ」
「私の光の聖魔術は特に夫人の病には不向きなのです。でもここに居る治癒術士たちならきっと伯爵夫人様に穏やかな終末を送れる様努力すると思いますよ。それでもあと二週間、それ以上の命の保証は出来かねます」
火魔法で焼き切ろうにも転移箇所が多すぎるうえ、肝臓や膵臓など手の出せない臓器にも転移がある。
何よりすべて処理できても夫人の体力が持たないだろう。
状態を見ながら食道や胃や腸などの箇所を細々と焼き切る程度の事しか出来ないのだ。
「獣人属の治癒術士の事は信頼しているのだ。屋敷で教導派の王宮治癒術士の馬鹿共に苦しめられて死なせるくらいなら…せめて…、…せめて最期くらいは…」
伯爵の口からはもう言葉は出ず後は嗚咽に変わってしまった。
「父上…、きっと、きっとここならば…。僕は一緒にいれなくても母上が安らかな気持ちになれるなら…」
私たちにどれだけの事が出来るのか判らないがやるしかない。
手を離す事なんて出来るはずないじゃないか。
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