閑話3 アルハズ州(1)

【1】

 アルハズ州にあるマンスール男爵領は大変な状態になっていた。

 収穫祭を過ぎた頃に州境にある農村の小作農や自営農が村を捨てて関所を襲い他領に逃げたのだ。

 おかげで領境に位置する三つの村が無くなってしまった。

 農地は有っても耕すものも住む者さえいない土地が出来てしまったのだ。


 これ迄も農民が立て籠もって抵抗する事や暴動を起こす事は稀にあった。しかしすべてを捨てて他領に逃げ出すようなことはついぞ聞いた事も無い。

 逃げ出したところでその先は同じような村々があるだけで、その先で生きて行ける保障など無いからだ。


 逃走した地域で逃亡先の村と争いになったり山賊になって討伐されたりするのが落ちである。何よりそんな流民は領都や州都の様な大きな街に向かうもので領境を越えて他領へ逃げるなど考えられなかった。

 それも今回は州境を越えて他州である。


 今回の変事はこのマンスール男爵領だけにとどまらなかった。

 マンスール男爵領での変事を気の毒な事だと他人事で眺めていた他領にも波及したのだ。南部の州と領境を接している領地で軒並み発生し、州内で併せて十を上回る村が消失してしまったのだ。

 大きな領地はまだ良い。しかしマンスール男爵領の様な小さな領地で農村が三つも無くなるという事は致命的なのだ。


 残った農村に命じて廃村になる三つの村の土地の一部を与えることを条件に農民を移住させたが、それでも村を一つどうにか復活させるだけに留まった。

 近隣の領地も似た様なものだ。男爵領や子爵領はかなり困窮している。


 同じ州内で亜麻への転作を始めて農民が余ったという幾つかの伯爵領から農民を一部廻して貰う事にしてどうにか二村までは回復する事が出来たが、脱走がおこった領地はどこも税収が下がる事は間違いない。


 そもそも宮廷貴族としての体面を保つためには、領地収入や王宮での収入を注ぎ込んでも足りないくらいなのだ。

 それで無くても聖教会から教導騎士団の装備の購入や皮革の納入などの無理難題を押し付けられいるというのに。


 まだマンスール男爵領は転作や牧畜は行っていないのだが、何一つ生産力を持たない教導騎士団の装備強化などは領地にとって益が無い。

 それなのに同じような脱走者を出さぬ様に領内の警備体制の強化は必須である。領兵や衛士を補強して州境の警備を強化するとともに領内の農村にも不穏な動きがないか監視しなければならない。

 聖教会の言う教導騎士団への装備品の供給の見返りに、どうにか農村の監視を騎士団に委託して折り合いをつける事が出来たのがせめてもの救いだ。


 農村では今でも不穏な空気がくすぶっている。

 場合によっては州都の州都騎士団を派遣して貰って州境の警備を強化して貰わなければならないかもしれない。

 そうなれば更に大きな出費が必要となる。かと言ってこのままではまた脱走が起こりかねないのだ。

 マンスール男爵はもう頭を抱える以外に術がなかった。


【2】

 アルハズ州を管轄するマンスール伯爵は最近州都マンステールに流れ込む流民に辟易していた。

 南部の州境からポワチエ州への農民の大量逃亡が発生した為、州境での往来の規制と警備強化を始めた結果、州内の収益が下がり始めている。

 ポワチエ州の商人が来ることで農民や下層民どもが無駄な知識を得て、在りもしない夢をポワチエ州に見たのだろう。そんなバカバカしい夢を見てその挙句迷惑を被るのは領主であるマンスール伯爵家なのだ。伯爵本人としては割に合わないと思うが、儲けを得ている手前文句も言えないのだ。


 最近は州境の警備を厳しくした為州境での人の行き来が制限されて、以来脱走農民が州都に流入し始めた。

 流民となった農民たちの一部は街道筋で盗賊となる者も増えている。

 犯罪者たちは徒刑囚として拘束し苦役労働に従事させることが出来るが、流入した脱走農民についてはそう言うわけにはゆかない。


 これ迄は救貧院に入れて苦役労働をさせる事が出来たが、それが廃止されたので対応が難しいのだ。

 出自が分ければ元の土地に送り返す事が出来るが、流民が素直に出自を告白するわけも無く身元不明の流れ者のままである。

 職業訓練所とか言う物が出来たが収容者が修得したい仕事を選ぶので、救貧院のように作業を強制するわけにはゆかない。

 何より鐘一つ分の読み書きや算術の指導など時間とカネの無駄しかない。


 農村からの脱走者は罪人として処罰する旨布告はして徒刑囚として扱っているが、脱走農民かどうかの判別などなかなかできるわけがない。

 軽犯罪でも徒刑に処すことで間引きはしているが、罪もない流民を拘束する事は出来ない。


 集めた流民をまとめて人手不足の所領の村に送っているが、又逃げ出してくるので焼け石に水だ。

 街に貧困住民が増えたところで税収が上がる訳でも無く、治安の悪化で警備費が嵩むうえ人の減った農村では収益が落ちる。

 値の高い亜麻の生産に切り替えて利益を上げようと転作を始めたが、その成果はまだ出ていない。

 この先亜麻に転作を進める事で農民は余ってくるだろうが、今は未だ麦の作付けも有り極端に人を減らせない。


 亜麻の収穫が終わってリネン糸に出来れば、収益が上がり税収が上がりマンスール伯爵家が潤う。

 一族が栄える為にはこの一年を乗り切れればきっと儲けが出る。


【3】

 秋に入って亜麻の市場は昨年よりも低調だった。

 今年はハスラー聖公国からの商人が半分以下に減っているのだ。昨年の綿花市場の崩壊によってかなりの商人が破産したり繊維関係から鞍替えをしたと聞いている。

 教皇庁や聖教会の御用達の商人の多くがこの市場から去って行った事で、亜麻を買い付ける商人が減った。

 昨年綿糸の急激な価格低下に引き摺られて下落した相場価格はまだ戻り切っていない。

 幸い西部や東部の一部で亜麻栽培を止めて転作を始めた領が増えた為、亜麻の品薄感もあり徐々に価格は戻り始めている。


 綿繊維が廉価品というイメージが出来た為その反動でリネンは高級品のイメージが出来つつある。

 リネン糸として市場に出せば昨年以上の高値になるであろう。

 北部教導派諸領で亜麻栽培に転作を始めた地域は、満を持してリネン糸を市場に出した。


 それと合わせたかのように西部でリネンの産地として知られるパルミジャーノ州の各領地から安価なリネン布が放出されたのだ。

 新型紡績機で紡いだリネン糸を新型の紡織機で織ったリネン布が市場に放出されたのだ。綿布市場と同じ道をリネン布も辿ろうとしている。


 繊維市場に出資している貴族や商人たち全てが気付いた。この先繊維市場はすべて変わる。

 変化について行けないものは全て葬り去れれてしまう。

 綿やリネンはもとよりウールも絹さえもこの市場理論に呑み込まれて行く。

 新型の紡績機と紡織機が全ての衣類の値段を下げてしまうのだ。

 繊維や生地だけではない。その生地で作る衣類も原材料の生地や糸が大幅に下がるのだから価格は大幅に下がる。


 そして今まで売られてきた衣類の資産価値も十分の一以下に目減りするという事なのだ。すなわち今まで富裕層が持っていた衣類の全てが十分の一以下の価格に下がってしまうのだ。

 古着商は資産を大幅に減らす。

 そして何より高利貸たちがその借金のかたに押さえていた衣類が全て暴落し、元本割れを起こすほどの負債を抱える事になるかも知れない。


 その結果マンスール伯爵領は、アルハズ州は、一つ間違えれば崩壊してしまう。

 もう亜麻への転作に舵を切ってしまった。

 この市場価格ではこの冬を乗り切れない。そして来年も収益が見込めない。

 このまま亜麻の栽培を続けてもこの州は貧しくなるばかりだ。

 これまでのように南部や西部の穀物を買い叩いてハッスル神聖国やハスラー聖公国の商人への転売という方法は五年ほど前から崩壊し始めて、今では領内の小麦を賄う事もままならなくなっている。


 そもそも北部諸州は小麦栽培にはあまり適さない地域も多い。ハッスル神聖国やハスラー聖公国が買い叩いてゆく南部や西部の小麦に便乗して、ライ麦や大麦と等量で交換していたような時代はとうに終わっている。ボードレール大司祭が枢機卿に就任してから南部での教導派の影響力は無くなり全てが大きく変わったのだ。


 それ以来南部や北西部や西部の清貧派の領土ばかりが豊かになって行った。

 このままでは州が、北部が、ラスカル王国が、教導派が終わってしまう。かつての教導派の栄光を取りもどさない限りこの州の、マンスール伯爵家の未来はない。

 そんな状態が教導派の諸州で起こっているのだ。

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