第160話 低血糖症

【1】

「誰が王太后に酒を渡した!」

 ヨハネス卿の怒鳴り声に三人の随員の顔から血の気が引く。


「セイラたちを早く!」

 ヨハネス卿は三人の随身を睨みつけると、メイドに確認する。

「いまサーヴァントが向かっております」

「ふん、主人の意向に従うだけで己で考えて行動も出来ない家臣しか持たぬ王太后殿下はまことに気の毒なお方だな」


「「「なっ…!」」」

 吐き捨てるように言うヨハネス卿に三人の随員は反論する事も出来ず言葉を呑み込んだ。

 些か顔色を悪くした三人の随員はそのまま俯いて口を噤んだままだ。


 そこにセイラ・カンボゾーラ子爵令嬢がフィディス聖導女とレイチェル修道女が駆け込んできた。

「いったいどう言いう経緯で…。発作の兆候なんて見られなかったのに…」

 フィディス修道女の嘆きのような声が聞こえる。


「この愚かな王太后は消毒用のアルコールをくすねておったようだ。知りながら黙認しておったものがおったようだがな」

「…なんてことを!」

 フィディス修道女そう一言言って息をのんだ。

「私が…私が目を放したばっかりに」

「あなたが気に病む事なんてないのよ。悪いのはこの王太后やそれを見逃した馬鹿者のせいよ。あなたの努力を無駄にした愚か者たちの自業自得よ」

 セイラ・カンボゾーラが怒りの籠った声を上げる。


【2】

 本当に腹立たしい。

 これまでのフィディス修道女やレイチェル修道女の努力を無駄にしやがって。

「レイチェル修道女! 状況から考えて飲酒による低血糖症。私が膵臓に聖魔法を流すから」

「はい、すぐに準備いたします」

「直接胃に流し込んで、方法を教えるとこの愚か者はまた同じ事を仕出かすかもしれないから口は噤んでおいて」

 私がレイチェル修道女にそう告げると頷いて処置の準備にかかった。


「なっ、何を…わらわに何を致す。貴様ら! 何が望みじゃ! わらわに触れるな、亡者どもが!」

 何やら混乱して錯乱している様だ。意識障害を起こし幻覚を見て言うるのだろう。


「亡者の分際で何故わらわの邪魔をする。ケダモノに組する王など愚王だから死んだのであろうが! ふざけるな! 我が息子を差し置いて男児を設けるなど万死に値する!」

 どうせ、いままで手に掛けて来た死者にでも苛まれているのだろう。


 フィディス修道女が痙攣を繰り返す王太后を押さえ付ける間にわたしがその上着をはだける。

 消毒を終えたレイチェル修道女がその腹部に手を置いて術を施す準備を始めた。


「何をしている!」

「玉体に…ケダモノが!」

「気に入らなければ今すぐやめても私は構わないのよ、あんた達のお陰で王太后の命が失われたところで、私にはメリットは有ってもデメリットは無いの」


「ケダモノに触れさせるな! お前が治癒をすれば良いだろうが!」

「残念ね。私は火属性だけ。水属性のレイチェル修道女しかこの処置は出来ないの」

 私は吠える随員にそう吐き捨てて治癒を続ける。

「そんな言葉信用できるか!」

「嘘しかついた事の無い輩は、自分がそうだから他人の言葉を信用できないのよ。勝手にどうとでも思っておけばいいわ。私たちは必要な事を粛々と成すだけよ」


「亡者どもが! わらわの手を離せ!」

「呼吸困難に陥りつつあります。抑えるのを手伝って!」

 獣人属サーヴァントが数人で押さえつけるがかなりの力で抗ってくる。

「しっかり押さえていて下さい。呼吸補助を開始いたします」

 フィディス修道女がそう告げる。


 レイチェル修道女は水魔法に集中している。

 胃の中に高濃度の砂糖水を流し込むのだが、分子構造の複雑な砂糖水を再現するのは非常に難しい。

 生理食塩水とは成分も、何より溶解量が格段に違うのでレイチェル修道女の様な熟練した水属性治癒士が必要なのだ。

 特に今の王太后の様に痙攣をおこし意識障害が出ている状態では経口摂取での誤嚥による呼吸障害の可能性が高い。


「ハッーー!」

 レイチェル修道女が息を吐くと、急激に王太后の痙攣が治まり始めた。

 それ迄焦点が有っていなかった目に少しづつ光が戻り始める。

 それと同時の王太后の口から怒りの言葉がついて出る。


「其方ら何を致す! ケダモノどもわらわに触れるな! 離せケダモノどもが」

「命を救った者に対して、随分の仰り様ですね」

「黙れ、小娘! 其方が命じたのか!」

「ええ、この先短い相手でも目の前で死なれると気分が悪いの。私、人が死ぬところを見たがるような人でなしじゃないのでね」


「小娘、何が言いたい!」

「別に何も」

「サッサとその汚い手を離さぬかケダモノどもが!」

「その獣人属に命を救われたのよ。感謝の言葉すらないのしら」

「何をケダモノ風情に。ケダモノが人の役に立つのは当然の事。それよりもわらわに勝手に触れたこと万死に値するわ」


「王太后殿下! 我々は止めたのですが多勢に無勢でこの有様で!」

「本当に救いようが無いわね」

「そう申すな、セイラ・カンボゾーラ。はなから解っておる事だ。俺はこ奴らに期待などしておらん。ゴルゴンゾーラ公爵家はジョン王子殿下の立場を慮って対処しておるだけだ」


「これで今日の治療は終わります。水とオートミールを持って来て渇きや空腹を訴えたなら与えてやって頂戴。その役立たずの随員は解放して良いわ。その代わりゴルゴンゾーラ公爵家のサーヴァントをタップリ配置して監視を続けておいてちょうだい。補助で就いた治癒修道士さんたちは引き続きお願ね」


【3】

 私たちは一旦寝室を出ると客間の広い応接スペースに陣取った。

「先ずこうなった経緯を整理したいのだが…」

 ヨハネス卿は少々イライラしている様だ。テーブルを指で小突きながらそう言った。


「消毒用の霧吹きのアルコールを盗んだのでしょう。他に持ち込める様な物は有りませんから」

 フィディス修道女がそう答える。

「離宮のメイドや給仕が持ち込むという様な事は」

「食堂で用意されたものをサロン・ド・ヨアンナのメイドが離宮の給仕に直接手渡しているから考え難いわね。そもそもあのゴブレットの臭いは飲用の酒の度数では無いわ」

 私もフィデス修道女の意見に賛成する。


「しかし、部屋の消毒は深夜にしか行わんだろう。夜にあの夜目の利かない王太后があんな小細工は出来まい。あの随員たちも余計な事をすれば自分の身も危うくなるのだからそこ迄の事はせんだろう。ならば日中だろう」

 ヨハネス卿の意見はもっともである。


「昼間ならどのタイミングでしょうね」

「…もしかすると、午後の部屋の掃除のタイミングかも。一昨日イブリンさんが掃除と併せて部屋の消毒を始めたので止めたのですよ。今日はイブリンさんとメイドさん達に任せていましたからもしかしたら…」

 フィディス修道女の言葉に

 私は慌てて側のメイドに告げた。

「イブリンを呼んでちょうだい! ナデタとベアトリスも!」


【4】

 まず初めにナデタを呼んでもらった。

 ナデタのイブリンに対する評価を確認したかったのだ。面と向かって腹黒いと評していていたのだから欺瞞工作に長けているのだろう。

 ただ少なくとも裏切ったり敵に回る事をするような相手としては想定していないのだろう。


 二人で控えの間に入って状況説明と意見を聞く。

「単なるミスとは思えないですね。作為的に誘導したのだろうと思います」

「彼女の気付かないところでやったという事は考えられないかしら」

「先ず無いでしょうね。視力の弱い王太后が様子を伺ったところであの娘の視線から逃れられる筈は無いと思います。随員は見てみぬふりをしたのでしょうけれど、イブリンはそうなるように誘導したのでしょう。そもそも王太后の手の届く所に置いたこと自体がその表れです」


「じゃあ後はどんな意図でかという事ね。ポワトー伯爵家の…カロリーヌさんの意向が有った…とは思えないのだけれど」

「私もそう思います。あの方本人は真面目で誠実な方だとお見受けしております。ただ、世間の評価は非情な謀略家と思われていますが。今のお立場ならその評価が地位をお守りする良い鎧になっていると思います」


「ただね、彼女の周りにもここ迄謀略はかりごとを企む者の心当たりが無いのよね…」

「ええ、オズマ様も同様に情に篤い誠実な方ですし、大司教様は小心者の凡愚ですし…」

「まあ良いわ。今イブリンは何をしているの?」

「離宮のハウスメイドを連れて明日の食材を引き取りにサロン・ド・ヨアンナに行っております。もう帰って来ると思いますから、帰ればすぐに事情聴取にこちらに出向かせます。それにもうすぐベアトリスが参りますから」

 そう言ってナデタは立ち上がった。

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