第159話 王太后の病室(3)

【7】

 掃除の後甘いホエーの飲み物を頼むと、これ一杯だけと念を押されて持って来てくれた。

 それを飲み干すと、後はそれに水を注ぐ。

 ゴブレットに入れた消毒用の霧吹きの酒はそのまま蓋を乗せて水差しの側に、すぐに手が届く位置に置いてある。


 日の高いうちはあのヨハネスやゴルゴンゾーラのケダモノたちの目が有る。飲み干す前に気付かれる訳に行かない。

 今は我慢だ。


 日が暮れて燭台の灯りが消えてからだ。

 そう考えながらホエーの入ったグラスに水を注ぎ飲む。

「王太后殿下、グラスをおさげしても…」

 陰気な声がして伏目勝ちのメイドが聞いてきた。


「もうこの飲み物は今日は出ぬのであろう。これで水を飲めば少しは甘みが残る水が飲める。気分だけでも味わせてたもう」

「イブリンめ、一体何を考えて…」

 そう告げるとその陰気臭いメイドは肩をすくめてポツリと訳の分からぬ言葉を溢して去って行った。


 意地汚いとでも思っているのだろうが、これも酒の為だ。

 こんなにも夜が待ち遠しいと思ったのは何時ぶりだろう。

 視力が落ちて夜になると燭台の灯りではほとんど何も見分けがつかなくなって久しい。

 それ以来夜は全てが閉ざされた陰鬱な時間になってしまった。匂いと味覚を満たす事が、それだけが夜の楽しみになってもう永いのだ。

 そして日が昇り太陽が周りを照らすのを待ち焦がれるだけの夜だったのだ。


 今夜だけは夕食も楽しみだ。

 それが終わって明かりが消えるのがとても楽しみだ。


【8】

 夕食はそば粉のガレットだった。

 又貧民の料理ではないか、まあ香辛料を利かせた鶏肉とカッテージチーズにアスパラやズッキーニの夏野菜が存分に入っているので文句はやめておこう。


 こうして落ち着いて食べてみると中々に美味いと思った。

 まあそば粉などこの先食べるつもりはないが…。

 あとはパンナコッタというアーモンドとかの言う物を絞ったミルクをゼラチンとか言う物で固めた菓子であった。

 不思議な食感だったが美味い。ただ、甘さが足りない。蜂蜜や砂糖を出さないという嫌がらせの一環だろう。


 しかし良くもこう家畜のエサばかり料理した物だ。

 ロックフォール侯爵家では普通に食していると言っているが、それが事実なら南部の貴族家は高貴なる者の矜持が無いとしか言えない。

 家畜や貧民が食べる様な物を食するなど高位貴族の恥ではないか。


 燕麦やライ麦は家畜の餌と決まっている。ソバや大麦も小麦を喰えぬ者が食するものだ。

 地に伏せる生き物の肉は下等な肉で豚は貴族の食するべきものではない。

 貴族が食するのはせめて牛肉、空に近い高貴な肉こそ必要なのだ。まあ鶏肉が多いことは認めてやろう。

 それに調理手間も省いているのではないか? 煮た後に焼く、焼いた後に揚げる、茹でた後にオーブン焼きにする。

 手間を惜しんでは貴族料理とは言えない。


 そして酒は大麦で作るエールはいけない。貧民や平民の飲み物だ。貴族が飲む物はブドウで造るワインに決まっている。

 しかし今日ここに有るのは蒸留酒だ。錬金術師が作る”生命の水アクアヴィーテ”なのだ。

 それを部屋にまき散らすなど物の値打ちが解っていない。

 やはり南部貴族は野蛮人の末裔だ。雅も趣も弁えない蛮人なのだろう。


 夕食の食器は下げられてベッドテーブルの上には水差しとくだんのゴブレットだけが残された。

「疲れた、今日はもう眠る。腹もふくれたのでしばらくはこうして座っているかも知れぬが、灯りを消してたも」

 メイド達は無言で室内の燭台の火を消して回って行く。

 衰えた眼では暗闇に燭台の灯だけしか見えないが、今夜はそれで十分だ。

 見えぬ事には慣れているので、暗闇でもゴブレットをとれるし水を注ぐ事も出来る。


 部屋の灯りがすべて消えたが何一つ困る事は無い。まさか目が見えぬ事に感謝する時が来ようとは思わなかった。

 暗い笑いを浮かべながら王太后はゴブレットの蓋を取って口元に持って来ると一気に流し込んだ。


【9】

 カラーン!

 ゴブレットの落ちる音を聞きつけた随員の一人が立ち上がった。

 衝立の向こうからメイドがゴブレットを拾うために燭台を手に向かってくる。


 ガシャーン!

 さらに大きな音が響いた。水差しが落ちたのだろう。王太后のベッドに向かう燭台の速度が速くなった。


「うああああー!」

 続いて王太后の悲鳴とも叫びとも言えない声が響き渡った。

 三人の随員は全員が立ち上がり王太后に駆け寄った。

 燭台を持ったメイドも駆けつけて周りの燭台に順に火を灯して行く。

 衝立の向こうからは次々と燭台を持ったメイドたちが駆け込んで来る。部屋中の燭台が灯されてベッドの上の王太后の姿が露わになった。


 ベッドの上で体をのけ反らせて痙攣を起こしているのだ。

 直ぐに待機していた治癒術士が二人駆けつけてきた。獣人属の治癒修道士が二人だ。

「直ぐに容態の確認と呼吸の補助を!」

 駆けこんできたヨハネス卿の指示が聞こえるが、もう既に二人とも王太后を押さえ付けている随員に割って入ろうとしている。


「ケダモノ風情が王太后殿下に触れるな!」

 それを随員の一人が薙ぎ払う。

「昼に来た人属の修道士を呼んで来い! 無礼者が!」

 随員たちの言葉にヨハネス卿が反論する。


「愚か者が! 王太后を殺す気か! 人属の修道士は王立学校に帰ったわ! 明日の朝にならねばやって来ん}

「なら呼びに行け! 殿下の玉体にケダモノを触れさせる訳にはゆかん」

「こんな状態で間に合う訳が無かろう! オイ! サーヴァント! この愚か者どもを排除しろ」


 即座に獣人属のサーヴァントが三人の随員を王太后から引き剥がし、部屋の隅に拘束する。

「ヨハネス卿! この仕打ち王太后殿下が目覚めたならお伝えするからな」

「ああ、構わんぞ。これで王太后殿下が死のうが助かろうが全て俺の責任だ。獣人属に治癒治療をさせた咎も背負ってやる。安心して傍観しておれ」

 その言葉に三人の随員の表情に明らかにホッとしたものが浮かぶ。


 それはそうだろう。

 王太后を死なせればその責めを問われる。だからと言ってゴルゴンゾーラ公爵家とロックフォール侯爵家の治癒術士に任せれば、王太后が一命をとりとめた時に獣人属に触れさせたと叱責を受けるのだ。

 ヨハネス卿も三人の立場を判らないでもない。

 だから敢えてこう言って邪魔をしないように釘を刺したのだ。


 早々に治癒術士の一人が呼吸の補助を始めているが、痙攣は止まらない。

 もう一人は心拍をと脈拍を見ながら少しづつ心臓に魔力を流している。

「これは…、いけません。セイラ様とレイチェル修道女様をフィディス修道女様にも容態の対処方法を指示して頂きたい旨直ぐにご連絡を!」

「いったい何が起こったのでしょう。容態は安定しておりました。こんなに急変する兆しは御座いませんでした」


「分かった! 直ぐに三人を呼んできてくれ! 一大事だと言ってな」

 ヨハネス卿の意を受けたサーヴァントが駆けだす。


「ヨハネス様! このゴブレットを!」

 床に落ちた水差しとゴブレットを片付けていたメイドが、拾い上げたゴブレットを持ってヨハネスのもとにやって来た。

「この臭いは! 誰が王太后に酒を渡した!」

 ヨハネスの怒りの声が響き渡った。

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