第146話 不愉快な朝

【1】

 朝日が差している様だ。

 何か非常に不快な夢を見ていた様だ。

 不快な日差しが体を温めて暑い。それに何だこの不快な臭いも耳障りな声も。

 瞼に差す光を感じる。

 眼を開くとどうもいつもの寝室ではないようだ。


 視力が衰えてから細かなものは見えないが、臭いや音に対する感覚は鋭くなってきたようだ。

 なんとも匂いとこの汗の感覚は辛抱出来ない。

「誰か! 誰かおらぬか!」

「おお、王太后殿下がお目覚めになられたぞ! 御復活なされた!」

 随員の聞き慣れた声が騒々しい。


「何を戯けた事を。早うわらわをおこしてたも」

「はっ!」

 随員が王太后を抱え起こす。

 そして王太后が自分の身を見下ろした時その惨状に愕然とした。

 汚れた不快な臭気を漂わせる、ずたずたに引き裂かれたドレスが目に入ったのだ。


「なんじゃ! これはなんじゃ! なぜわらわはこの様ななりをしておる」

「王太后殿下、お目覚めで御座いますか? これ随員、さっさと王太后殿下のお召し替えを行い、お身体も隅々までお拭きなされよ。臭くてたまらんのでな」


 見知らぬ男の声である。

 遥か昔に何処かで聞いた事が有る様だがそれもはっきりと思い出せない。

「其方何者じゃ! 不敬であろう! その命おしくないのか」

「これは、王太后殿下。御不快でありましたなら失礼仕りました。お怒りをお沈め下さい。さもなければまたぞろ心の臓が止まる事にも成りかねませんのでな」


「なんじゃと! 其方は…」

「お静まり下され王太后殿下」

「興奮されますとお体に障ります」

「どうかお身体を慮って、今はお怒りをお沈め下さい」

 随員の慌てた取りなしに少し面食らった王太后は怒りを抑えて聞いた。


「其方何者だ。わらわの声掛けも無く口を開くとは作法も知らぬ下賤の者か」

「恐れ入ります。王太后殿下の前ではすべからく皆下賤の民で御座います。わたくしはその下賤なるゴルゴンゾーラ公爵家の長子、ヨハネス・フォン・ゴルゴンゾーラと申しまする」

「なんじゃと! 其方、何故ここにおる。なによりここはどこじゃ? わらわの離宮ではないではないか」


 目覚めてしばらくボンヤリとしていたが、どうもここは自分の知っている部屋で無い事に気付いた。

 何よりも薔薇の香りがほとんどしない。あの咽かえるような薔薇の香りが。


「…王妃の離宮かえ。それにしてもこのドレスはなんじゃ。それ相応の報復は考えさせて貰うぞ」

 昨夜の事が脳裏によみがえって来た。

 この不愉快な男と孫のジョン、それにあのセイラとか言う憎い小娘に煽られて、意識が遠のいたところ迄しか覚えていないが、その後この部屋に運び込まれたのであろう。


 倒れていたと言っても召し替えもさせず、何よりドレスをずたずたに切り刻んだ事にフツフツと怒りが湧いて来る。

「サッサと召し替えをさせよ。体を拭え。それが済めば離宮に帰るぞ!」


【2】

 その言葉には誰も何も言わず、随員がベッドの足元に衝立を移動し切り裂かれたドレスを脱がせると体を塗れたタオルで拭った。

 その間にも怒りがフツフツと沸いてくるのだが、タオルは柔らかく心地よかった。


「王妃は…王妃はどうなっておる。今どうしておる」

「はい、詳しくは存じませぬが恙無いように御座います」

「クッ、忌々しい。強運の持ち主なのか? しかし、しかしなぜじゃ? なぜ効かなかった」


「畏れながら王太后殿下に置かれては王妃殿下よりも強運も神の加護も持たれておると心得まする」

「うるさい! 世辞など良い。早う帰りの支度を致せ」

「いえ、ですがしかし…」

「王太后殿下、実は…」

 随員の態度に違和感を感じた王太后はさすがに想定外の事が起こっているのであろうと勘付いた。


「いったい何が…」

「王太后殿下、もう少しごゆるりと致せば良いでは有りませぬか。朝食の準備も整うております。まだ朝も早う御座いますからせめてそれを召し上がってからでも」

 ヨハネス・ゴルゴンゾーラ卿がまた口を挟む。厭味ったらしい口ぶりが一々癪に障る。


「よいわ! 毒でも盛られては一大事じゃからな」

「まさか、まさか! 神子の加護を受けられた王太后殿下にその様な事を致す訳が御座いませんぞ。そんな事で神子の加護を失っては一大事ですからな。さあ神子様がご指示されたメニューの朝食をご用意いたしましたぞ」

 王太后にはヨハネス卿の言っている事がサッパリ理解できなかったが、随員はその言葉を聞き顔色を失う。


「いった何事が起っておる…。神子とは何の事じゃ…」

 当惑の言葉がついて出た。

「御不信ならば、随員に毒見をさせれば宜しい。いや、このヨハネスが毒見を仕りましょう」

 相手の意図が見えぬがさすがに朝食に毒などしかけてくることもなろう。この男が毒見を引き受けるならばそれでかまわぬ。何よりもひどい渇きを覚えている。


「相分かった。早う朝餉を持て、王妃の離宮ごときで大したものも期待できまいが食してやる」

「有難うございます。オーイ、朝食を持て毒見用に取り分ける器もだ」


 メイドがワゴンを押して入って来る。

 弱視の王太后には顔は良く解らないが、朝日に照らされたその姿は頭の上に耳が有るのが分かる。

 あのゴルゴンゾーラ公爵家らしい安い挑発だ。嫌がらせで獣人属メイドに持って来させたのだろう。


「フン、ケダモノメイドごときはワゴンを押す事くらいしかできぬようじゃな。おい、其方取り分けてゴルゴンゾーラ卿に渡してやれ」

 随員に指示を出して取り分けを促す。だれがゴルゴンゾーラ公爵家の者などに手を触れさせるものか。


「はい、王太后殿下。…これは! なにを」

「サッサとせんか!」

「はい今すぐに」


 カチャカチャとカトラリーの音がして取り分け、切り分けが行われる。

「わらわにはとりわけで使ったカトラリーをそのまま持ってまいれ」

 カトラリーに毒でも塗られていれば毒見など役に立たない。


「それではお先にいただきまする」

 ヨハネス卿の満足そうに咀嚼する音が響く。

 パンやスープの匂いも鼻孔をくすぐり空腹感も募って来る。

「早う持ってまいれ。早う」


 ベッドテーブルが設えられて、その上にパンやスープや主菜の皿が置かれる。大きめのゴブレットにピッチャーから水が注がれた。王太后はゴブレットをとると一気に水を流し込んだ。

 良く冷えた旨い水である。

「まあ良い水じゃな。もう一杯注いで貰おう。それからこの水ならば良い茶が入れられるであろうから茶も所望じゃ。砂糖をたんと入れてたもう」


 そう告げたが誰も動こうとはしない。

 これも嫌がらせか? 鼻を鳴らすとカトラリーをとりまず主菜を切って口に運ぶ。塩胡椒で味付けされた鶏肉のようだが、煮て焼かれた物のようだ。

 空に舞う鳥は高貴なものに出す料理ではある。

 しかし、皮も付いておらぬ上、その部位も胸の肉のようだ。旨くない。


 数口食べてスープを口にする。大豆とニンジンが入ったスープだ。普通は肉を入れる物だろうがベーコンやソーセージすらも入っていない。

「なんと粗末な。王妃殿の窮状が見て取れるわ。異国者は朝食さえ粗末でいかん」


 そしてパンを手に取る。

 暖かい焼きたてのようだが色合いがおかしい。訝しく思いながら口に運ぶ。

「なんじゃこれは! この様な物をわらわに食わそうと言うのか! 無礼者が公爵家の長子であってもタダで置かぬぞ!」

 王太后が口に運んだのは全粒粉のライ麦や燕麦の入ったパンであった。それもバターも塗らず、オリーブオイルを塗り付けただけの。


「この様な物、農奴や貧民が食す者では無いか。ふざけるでないぞ!」

 そう怒鳴ると怒りに任せてそのパンをヨハネス卿に向かって投げつけた。

 それを躱したヨハネス卿は落ち着いた声で言う。


「ライ麦や燕麦でも工夫すれば美味しく食べられる物。このパンなどもこれをよもや不味いとは申せますまい。何より農奴や貧民はこれ程高価な物は食する事など出来ないのですぞ。原料と手間と味を考えれば貴族の朝餉でもおかしくない」

「黙れ、黙れ、黙れ、ライ麦や燕麦など家畜の餌じゃ。胚芽も除かずに食わすとは何事じゃ。豆のスープにただの水、それにバターもつけずオリーブオイルだけとは愚弄するのも甚だしい」

 そう怒鳴るとベッドテーブルの食器類を右腕で全て薙ぎ払い床に落とした。


「そう仰いますな。当分この様なメニューが続くのですからお諦め下され。メイドよ、落ちた食器を片付けて同じ物をもう一度持ってまいれ」

「なんじゃと…、其方なんと申した。当分続くとはどういう事じゃ!」

 訳も判らず混乱する王太后を残してヨハネス卿は席を辞して行った。

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