閑話25 聖大公執務室(1)
☆
「マリエル・ダンベール王妃から文が来た。王立学校の夏至祭でまた大きな動きが有ったようだ。
フルム・ダンベール聖大公の執務室は広いがすこぶる簡素である。
聖大公が言うには不必要な資料を持ちすぎる者は仕事が出来ないとの給うが、聖大公の周りには資料代わりの側近が幾人も在住している。
司書であったり秘書官であったり法務官であったり数人の腹心の
そしてアーチボルト・オーヴェルニュは商業に特化した腹心の一員である。
「ゴッダードでセイラ・カンボゾーラ子爵令嬢から聞いた情報とも合致致します。夏至祭で仕掛けてきたという事でしょう。リネンの相場はこの先急激に下がるでしょう。昨年から直轄領や支持者の貴族領でも紡織工房は手織りや高品質品にシフトさせ、今年の収入は見込まれない事を納得させております」
「この一年世界は荒れるという事か。乗り越えられなかったものは滅びるという事だな」
「御意で御座います。ただこの収穫期に大暴落したリネンはハスラー聖公国の資金を最大限に活用して底値で買いあさります。ラミーに転作した農家は水処理から漂白迄を済ませてラスカル王国に輸出します」
「それはどういう事なのかな?」
「この急激な繊維市場の崩壊の原因は綿やラミーの生産とは関係ないからですよ。紡績や紡織が急激に効率化したことで御座います。夏場の服の生地は綿よりもラミーの方が向いております。コットンと同程度の値段なら品質で負ける事は御座いません。今のリネンとコットンの差額は単に収穫以降の製造費用の違い。同じ紡織工房に卸せば十分に利益が上がります。来年からは我らハスラー聖公国の利益も保証されます」
「その流れに乗れないのは誰になるのだ?」
「ハッスル神聖国。そしてその教義から抜け出れない者たち。聖女ジャンヌ・スティルトンに敵対するものは全てこの流れから弾かれます」
「ほう、聖女ジャンヌ・スティルトンとはそこまで苛烈な気性なのか?」
「いえ、聖女自体は大人しく慈悲深い清貧を体現したような少女ですが、その取り巻きが…その筆頭がセイラ・カンボゾーラ子爵令嬢なのです」
「ジャンヌの狂信者という事か?」
「いえ、あの娘はジャンヌを神輿に担いでこの大陸の経済を握ろうと画策しているのではと踏んでおります」
「ラスカル王国では無く、北方三国でも無く大陸を?」
「当然一人では御座いません。賛同するのはゴルゴンゾーラ公爵家とロックフォール侯爵家。そして急激に力をつけているポワトー伯爵家。そしてそれらを手駒にしようとされているのがマリエル王妃殿下で御座いますな」
「マリエルか…。其方はマリエルがジョン王子の王位即位と儂の退位を秤にかけた時どちらを取ると思う」
「その様な事は…。それにそんな事は起こらないだろうと思われますが」
「世の情勢はどう転ぶか分からぬぞ。其方の印象で良い。儂も我が娘ながらもう顔を合わす事も無く二十年が来ようとしておる。今のあ奴は其方の方が良く知っておる」
「それでは畏れながら申し上げます。ジョン王子の即位を取ると思います」
「フム、やはりか」
「しかし、親の情だけでは御座いませんでしょう。聖女ジャンヌの一派を握ったジョン王子ならばラスカル王国を握り、聖大公殿下が退位なされたあとのハスラー聖公国は容易に属国にして西方のモース公国やジルベスター大公国もエドワルド侯爵領も併合され、ノース連合王国も属領になるでしょうな。サンダーランド帝国も少なくとも国の形態は残っても経済的には植民地でしょう」
「息子のエメを立公子にしたのは間違いでおったかな? 姉のマリエルに継がせた方が良かったという事か」
「いえ、エメ様はまだお若う御座います。能力的にもマリエル様と大きな差がある訳では御座いませんが、ラスカル王国の聖女ジャンヌの周りには化け物が溢れておるようですな。特に領主として瞬く間に領内はおろか州内迄牛耳ったカロリーヌ・ポワトー
「今申した中にセイラ・カンボゾーラ子爵令嬢の名が無いが、それはどう見る」
「実働部隊のトップでしょうが掴めぬのです。全ての場面に影のように付いております。ラスカル王都でのオークションハウス設置の発端を作ったのも彼女。オークションには顔を出さなかったのですが、間違いなくあの場の何処かに居たと思います。それにゴッダードの綿花市場に止めを刺したのも彼女、遡って王妃殿下が設立したラスカル西部航路組合の発端を作ったのもポワトー
「面白い、それで其方はそのセイラ・カンボゾーラ子爵令嬢をいたく買っておる様だな」
「ええ、若い狂信者や名誉欲に取り付かれたギラギラした若者は知っておりますが、妙に枯れたところの有る娘でした」
「枯れた?」
「金儲けには寛容、ただし搾取には容赦しない。教導派の教義には色々と辛酸を舐めさせられた様で決して許さないと申しておりました。ですから身分と種族の差別を非常に嫌っておるようですが、階級制度を否定するわけでは無い。身分有る物はその責務を果たせと。だから教導派と相容れない。ただし農奴制は憎悪している様でハウザー王国の南部貴族と福音派高位聖職者は敵だと断言しておりましたな」
「それだけ聞くと狂信的な清貧派に聞こえるのだがな」
「いえ、農奴制と種族差別と身分差別を容認しなければ、誰も否定はしないと。憎しみや嫌悪感がそう簡単に消えるものでも無いだろうが理性で押さえられるのであれば手を握ると」
「それでマリエルや儂はその部類だと判断したという事か、信用はしないが共闘は出来ると手を差し出した訳だ。まあ、聖公国内のハッスル神聖国派閥が一掃できるならそれまでは手を取っておこう」
「多分カンボゾーラ子爵令嬢も同じ考えでしょう。右手を差し出して左手でナイフを握るくらいの事は平気で出来る娘ですから」
「おいおい、侮れんなあ」
「ジョン王子殿下はあいつは毒蛇だと嫌っておられましたが、マリエル王妃は毒蛇でも御せねば王座は継げぬと仰ってかなり気に入っておられるようですが」
「あのマリエルがか? あ奴の獣人属嫌いは徹底しておるのだが」
「それでも理性で対応できるお方ですから。ジョン王子の婚約者のゴルゴンゾーラ公爵令嬢は周りに獣人属の幼いメイドを大量に侍らしていることで有名ですが、それでも王妃殿下は婚約破棄を勧めない。好き嫌いでは無く王妃としての器が有るかどうかで判断なされていらっしゃいますからな」
「そこまで聞けばラスカル王国は安泰のようだな。我がハスラー聖公国もその一派に全てを張って小娘の賭けにビットしようでは無いか」
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