第73話 東屋(2)
【1】
「教皇に、ハッスル神聖国の大聖堂に与したくないからで御座います」
これは私の全てに勝る本音だ。
「其方そこまで教皇が憎いか?」
「ええ、憎うございますね。誰を許せても奴らだけは許せません」
当然だ。
ジャクリーンさんから話は聞いている。
ジャンヌさんの母上はあの教皇に使い潰されて、父のスティルトン騎士団長はジャンヌさんを逃がすために戦って、裏切り者に倒された。
ジャックの父親のディエゴさんも一緒に騙し討ちされて殺された。
そしてジャンヌさんは目の前で、育ててくれたお婆様を殺され、ジャクリーンさんとヘッケル司祭に助けられたがそれ以降も命を狙われ続けた。
そのジャクリーンさんも幼いジャックを残して、ジャンヌさんの護衛を続けながら賞金首として追われていた。
テレーズさんもケインさんもその教導派のシェブリ伯爵家とギボン司祭によって人生を狂わされた。
ケインさんの母上はギボン司祭に殺され、テレーズさんの父親も巻き添いで討ち死にし、妹はギボン司祭に騙されて自死した。
この私だってルーシー義母上やヴァランセ騎士団長を目の前で殺されかけた上に、私は父ちゃんやお母様と離れて暮らさねばならなくなってしまった。
なによりライオル伯爵領の領民の惨状を目の当たりにして、教導派聖教会に憎しみを持たないなど考えられない。
「母上、俺もセイラ・カンボゾーラの言い分は分からぬ事も無い。ジャンヌがどれ程ひどい目に遭ったか色々と聞いている。…それに王都の救貧院の惨状をこの目で見た。あの搾取を行っていた教導派聖教会は俺も許せんと思いました」
「それ以上口にするでは無いぞ。不満でも王位を継承するまでは陛下の批判と思われる事は口にするでない。つまらぬ一言でも謀反の濡れ衣を着せられる事も有る」
「しかしセイラ・カンボゾーラ。憎悪だけで動けば足を掬われるぞ」
「別に感情だけで動いているわけでは有りません。自由市場にすれば必ず教皇派閥やハッスル神聖国が横やりを入れて権利の簒奪を狙うでしょう。そうなれば国王陛下はペスカトーレ侯爵家やモン・ドール侯爵家の意を受けて絹取引に枷を掛けてくるでしょう。その結果数年で絹はラスカル王国に流通しなくなる」
「綿花市場の二の舞に成ると」
「ただその間に神聖国の教皇や枢機卿たちが暴利をむさぼる。それが私には我慢ならない」
「以前母上の申した通りだな。まさかそこまで教皇派が嫌いか」
「其方、わたくしの思っていた以上じゃな。それでわたくしの庇護を望むと」
「それも御座いますが、ハスラー聖大公の影はハッスル神聖国の牽制にもなります。自由市場で幾らかけてハスラー聖公国が絹を買い占めようと、損失を出してまで売ることは無い。いえ、あのハスラー商人がわずかな儲けで満足はしないでしょう」
「絹をハスラーが買い占めろというのか? 其方それで良いのか?」
「ラスカル王国の庶民にとって絹織物など今は不要な物。ならばアヴァロン商事はその絹の儲けで、綿織機や機械製造や農業に投資して平民を富ませる事に尽力します」
今までこの国に存在しなかった絹は、庶民生活に必要な物ではない。それならば高位貴族や神聖国に高値で売り払って儲けを民需品に再投資する方が良い。
「高級品の扱いはハスラー聖公国に分があります。負けると判っていて勝負するつもりも有りませんし、棲み分けをする事でお互いに要らぬ諍いをしたくないのです」
綿花市が終わってしまえば、ハスラー聖公国はほぼ全ての綿花市場を失う。
しかしそれだけで終わらないのだ。
今迄ハスラー商人が牛耳っていたリネン市場もその煽りを受けて一気に値崩れして崩壊するだろう。民生品は全て私たちの手に落ちるのだ。
そうなれば東部国境での戦争の可能性が増大する。
それを防ぐ為にはいくらかパイを分けておかなければいけない。
繊維市場で残るのは高級生地だ。
これ迄のブランドと意匠、そして手織りによる付加価値。
それを全てハスラー聖公国に渡す。ハスラー商人は毟りたければ富裕層からいくらでも毟ればいい。
その儲けが手間暇かけた職人たちにわたるのならば。
「しかし良いのか。ロックフォール侯爵家にも図らずにブリー州でそのような事を行って。南部のライトスミス商会から横やりが入らぬのか?」
「ライトスミス商会はゴッダードが地盤です。エマ姉…エマ・シュナイダーにも話は通しております。それにこのままでは流通の多くをファナタウンに持って行かれてしまいます。それも有ってゴッダードにハスラー商人の常駐をお願いしたのです」
不定期で開催される絹取り引きは時機を逸すれば参加できない。
その監視と取引の為に商人たちを残留させたいのだ。
そうなれば、ハスラー商人も絹以外の取引にかかわってくるうえ、ファナタウンから東に流れる物流も途切れる事は無い。
「ロックフォール侯爵家に牛耳られればこれまでの経緯も有りますから、ハスラー聖公国に対してでも容赦しないでしょう。私はそれは避けたい」
「慈悲深いな。わたくしの父上にも情けを掛けてくれるとはな」
「別に聖大公閣下に情けなど…。紛争になれば泣くのは国境の農民だから」
「良かろう。わたくしも戦は望まぬ。生国との板挟みは避けたいのでな。其方の申す通り早急にゴッダードに商人を派遣する様に、ハスラー聖大公に具申しよう。派遣する商人も其方の意に沿う様な者を派遣する様に申しておく」
「僭越ながら綿花市の立つ頃までにお願い致します。それを逸すると機を逃してしまいます」
「どういう事だ。機を逸するとは?」
「気付かれてしまうかもしれません、ハウザー王家に」
「そういう事か。綿花と同じく絹も抑えにかかるという事か…。よくぞそこまで気付いたものだな。綿花市に参加する商人に紛れて関係者を派遣して極秘裏に進めさせよう」
もちろんブラフである。
絹の出どころを偽っているのだから、バレるまでに既成事実を積み上げて抜け出せない状況を作ってしまうつもりでいるからだ。
それでも一歩でも他者より先んじて動けば、それだけででも優位に立てるのだから損は無いはずだ。
「其方には感謝の言葉も無い。しかもロックフォール侯爵家を出し抜かせて貰えるとは思いもよらなかったぞ」
「俺もだ。あのエマ・シュナイダー迄黙らせたとは恐れ入るな」
「其方、本当にジョンのもとについて王宮に入らぬか? 側妃としてどうだ? 清貧派の教義でも側妃は認められぬか? 清貧派の教義くらいなら飲んでやるぞ。ならば形だけの寵妃で良いから王室に入り辣腕を振るってみぬか」
「母上、止めてくれ。この女にそんな権限を与えると何をするか判らない。それこそ気付けば俺は追放されてカンボゾーラ王朝が出来ているかもしれん」
「ジョン王子殿下、そこまで私の事を買ってくれて有難いわ。そうねカンボゾーラ王朝も悪くないかもね」
「戯けた事を! やはり其の方はジャンヌと違って邪悪だ! そう言う態度だから信用されんのだ。そもそも政治に首を突っ込む気も無いであろう」
「まあ、私は商人気質だからね。政治の駆け引きなどは願い下げだもの」
「その才、欲しいが仕方ない。其方を敵に回さぬ様に気負つけておこう。なに、次の王妃はヨアンナじゃ。ジョンが王位につけば其方の悪い様には成らんだろう」
王妃殿下はそう言うが、そうなると将来の王宮が獣人属の託児所の様になりそうに思えて仕方ない。
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