閑話12 アジアーゴ(2)

 ★★★

 名前は有ったのだろうが覚えていない。

 物心ついた時から野良猫と呼ばれていたが、親から貰った名前では無い事だけは薄っすらと記憶にある。


 ずっと南ハウザー王国の南の方で農奴として売られて行く馬車から母と逃げだした事だけは記憶にある。

 父が母と彼を逃がしたと聞かされている。


 どうにか農奴の居ないハウザー王国の北部まで逃げ延びてきたが、過労と栄養失調で母が死んでしまった。

 名前も判らない北の街の裏路地で、彼が残飯を漁って帰ってきた時には冷たくなっていた。


 それからは浮浪児として泥水を啜って地べたを這って生き延びて、どうにか国境を越えてラスカル王国へ逃げ延びてきた。

 父が猫獣人属で母が人属の混血で見た目は人属に見えるが、夜目が聞きすばしっこかったお陰でコソ泥やカッパライでどうにか生きて行くことが出来た。

 ラスカル王国は景気が良いと思っていたハウザー王国の北部よりも更に豊かで、何でも豊富だった。


 ただ野良猫にとって住みやすいところでもなかった。

 景気は良くてカモはいくらでもいるが、その分衛士や騎士の目も厳しく生真面目であった。

 ハウザー王国のように手抜きの捜査やお目溢しもない。衛士や騎士にアガリを取られる様な事はないが、野良猫のような子供は捕まれば救貧院や聖教会の矯正院に入れられると噂に聞いた。

 そんな事はまっぴらだ。


 かと言って仕事に就こうにもラスカル王国の南部は雇ってくれるところが殆どない。

 まず聞かれるのは『字はどれくらい書けるか? 帳簿は付けられるのか?』との質問だ。字が読めて計算ができるのは大前提なのだ。


 指の数以上の計算が出来ない、字も読めない浮浪児に仕事などあるはずがない。

 結局南部から西部へそして北部へと流れてゆくことになった。

 そうして北に進むほど景気も治安も悪くなり、ハウザー王国の南のような雰囲気がしてくる。


 この頃のなると野良猫と同じ境遇の脱走農奴の子供や孤児、そして救貧院を逃げ出した子供たちが集まっていっぱしの愚連隊のリーダーになっていた。

 流れ着いたショームとか言う伯爵の領都で残飯あさりや物貰いをしながら、スリやカッパライで糊口をしのいでいた。


「ねえ、ほくせいぶに行こうよ。あそこはきゅうひんいんが無いんだって。そのかわりに聖教会ではたらけばお金がもらえてごはんも食べられて字もけいさんもおしえてもらえるんだって」

 来年八歳の洗礼式を迎えるミシャが野良猫にそう言った。

 ミシャは犬獣人の女の子で、父親と国境を抜けて逃げてきたが西部の商人に騙されてショーム伯爵領の農園に農奴同然で売られてきたのだ。

 父は農園で使い潰されて死に、ミシャは農園主に売られるところを野良猫が攫って逃げてきたのだ。


「ほくせいぶのごりょうしゅ様はとても獣人ぞくにやさしいお姫さまなんだって」

「バカ野郎。そんなうまい話があるわけ無いだろう。騙されてるんだよ。お前の親父だってそんな話に騙されて死ぬことになったんだろう。来年は洗礼式だからそれが終わったら俺が働き口を見つけてやる。それまで馬鹿なことを考えるな」


 そう云う野良猫は洗礼式も受けていない。

 母を亡くしたのが五才で国境を超えたのが七才の時だ。母が死んでからは生きるだけで精一杯で洗礼式など考えることすら出来なかった。

 あれから四年。野良猫は十一歳。

 慕って付いてきている子供たちの中には洗礼式の年齢を超えたものもいる。

 けれども教導派の聖教会は獣人族や浮浪児など教会内にすら入れて貰えない。

 あちこちからアテを探していると河筋にある男爵領には清貧派の聖教会が有ると噂に聞いて、そこに移ることにした。


 話に聞いたレ・クリュ男爵領は田舎の辺鄙な町だったがショーム伯爵領よりに潤っているように感じる。

 そして清貧派の聖教会はミシャが言ったように子供たちを住み込みで働かせてくれて字も計算も教えてくれるようだ。


 野良猫は子供たちを聖教会にあずけて、子供たちの洗礼式のお布施を稼ぐために更に北へ向かった。

 ショーム伯爵領の聖教会は洗礼式のお布施が一人銀貨二十枚。預けた子供たち全員に洗礼を受けさせてやりたい。

 全部で六人。銀貨はえーと…。そうだ金貨一枚と銀貨が二十枚だ。


★★★★

 ショーム伯爵領を出てさらに北へ向かうとマンスール伯爵領で北海に向かう貿易船の船員を探していると噂に聞いた。

 話を聞くと、年齢も経験も不問、アットホームな職場だと言うことだ。


 夜目が効いて素早いことをアピールすると即採用だ。

 見るからに浮浪児然とした風体の野良猫を即決で雇うのだから後ろ暗い仕事だということは間違いないだろう。

 でもそんな事はどうでもいい。前金としてもらった銀貨五十枚を街外れの清貧派の聖教会からミシャ達の居る聖教会に送った。

 港街のアジアーゴは獣人族もやってくるため粗末ながら清貧派の聖教会もあるのだ。


 この後は船に乗って私掠船の船員として働き、港に帰れば成功報酬がもらえる。

 平衡感覚が優れた猫獣人の血を引く野良猫はよく働いた。

 夜間の物見も獲物の発見も早かった。

 おかげで一度目の航海は獲物を捕らえ奪った積荷を抱えてたった五日でアジアーゴに寄港出来た。


 二度目の航海は腰を据えて三隻の貨物船を襲撃し、積み荷を満載して帰港した。

 この二回の航海で子供たちが洗礼を受けるには十分すぎる金を儲けることが出来た。今回の金で野良猫も洗礼式が受けられて、しばらくは子供たち皆で生活できる程度の金を稼げたのだ。


 ただ困ったこともあった。

 アジアーゴの街から出ることが出来ないのだ。

 やっている事は犯罪で、しかも捕まれば全員縛り首の重罪だ。それを容認しているこの街の領主だってただで済まないだろう。


 当然発覚を懸念して一人で街は歩かせてもらえない。しかも船員全員が衛士や騎士に監視されている。

 それでも野良猫は仲間に会いたい、せめて金を渡したい。二回の儲け金貨三枚を下着に縫い付けて船に乗った。

 この航海を最後に船から降りようと逃走経路も確認した。埠頭から海に潜って東に泳げば小さな岩場が有る。そこで夜まで待てば人目につかず街の城壁の外に渡れるだろう。そうすれば清貧派の聖教会に逃げ込める。


 しかし三度目の航海は最悪だった。はじめに襲った船の襲撃はうまく言ったはずなのに野良猫は燃える船に置き去りにされた。

 煙に巻かれて仕方なく海に逃げ込んだのだ。

 もうだめだと思ったときに救助のカッターが来た。てっきりユニコーン号の仲間かと思ったがそうではなかった。


 薄れる意識の中で見えたのはシャピ船席の貨物船だったのだ。

 野良猫が気づいた時は濡れた服は脱がされて羊皮に包まれて船倉に転がされていた。

 このままシャピに連れ帰られたなら海賊だとバレて縛り首だ。何よりこの船だってユニコーン号に襲われる可能性が高い。


 寝返ったと思われたら殺されるだろう。

 選択肢は無かった。濡れた服を羽織って、こっそりとランタンを持って船倉を抜け出す。

 船内は全ての灯りが消え、無人のように静かだが人の気配と殺気が入り混じっているのが分かる。


 気づかれている。

 ユニコーン号に逆に攻撃をかけるつもりなのだろうか。

 ランタンに上着をかけて灯りを隠すと甲板に上がった。目を凝らすとすぐ先にユニコーン号が潜む岩場が見える。

 慌ててユニコーン号に向かってカンテラを振った。


「あっ! てめえ…!」

 船員の怒鳴り声が聞こえた。

 野良猫は後先を考えず海に飛び込むとユニコーン号に向かって泳ぐ。

 すぐに引き上げられて、上機嫌の船長に迎えられたがそれもほんの僅かの間だった。

 シャピの貨物船に反撃されて僚船のバンディラス号は座礁、ユニコーン号は砲撃を受けて甲板と左舷に大穴が空いた。


 それからはシャピの船から必死に逃げてアジアーゴにどうにかたどり着いたが、船に閉じ込められて出ることが出来ない。

 そのうち船員が一人ずつ降ろされ始めた。裏町で培った勘で不穏なものを感じる。野良猫の勘は当たるのだ。


 こっそりと船倉を離れると左舷の大穴から気づかれぬように海に降りた。

 静かに泳いで目星をつけていた岩場にたどり着いたので凍えながら夜まで待つ。日が暮れかかった頃港の様子を確かめるため岩場から顔を出すと遠くにユニコーン号が見えた。

 マストに何かがぶら下がっているのが見える。目を凝らすと人だ! 風に揺られてグルリと回るトップマストの人影はベロリと舌を垂らして目をむいている船長だった。


 野良猫は海に飛び込んで必死に城壁の外を目指して泳ぎだした。

 寒さと恐怖と疲れでフラフラの状態であったが、どうにか陸にたどり着き城壁に沿って歩き出す。

 城壁に沿って粗末なバラックが並んでおり、その中で明かりの灯る少し大きな建物が通りの外れに建っているのが見えた。


 聖教会の聖印が扉に掘られている。

 乱暴にドアを押し開けて中に転がり込むと二人ほどの獣人族の女性と修道士らしき男、そして身なりの良い人族の女性が驚いたようにこちらを見つめていた。


「どなた…? その目は人族ではありませんね」

 身なりの良い女性がそう言った。

「あんた、貴族かい? 人族の貴族がなんでここに」

「私は貴族ではありませんよ。それに今はハウザー王国の国民です」


「それじゃあ、同国人の誼で助けてくれ、俺を待ってる奴らがいる。渡さなきゃいけねえ物があるんだ」

「その訛はハウザー王国の南部ですね。私はド・ヌールと申します。ことと次第によりますがご助力いたしましょう」

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