閑話16 クロエの卒業式(1)

 どうしても顔がにやけてしまう。

 両手を頬にあてて俯いているのだけれど、何故か顔が熱い。

「あの…ウィキンズ様。中は空気が淀んでしまいますから風にあたりに参りませんか。そうですわ、そう致しましょう」

 そう言って彼の手を引っ張りかけて、慌てて手を引っ込める。

 手を繋ぐなんて! そう考えただけでも心臓が飛び出しそうになる。


「それは良いなあ。ウィキンズ、足場の悪い甲板の上で一勝負つけてやる、表に出ろ!」

「兄上! 私はウィキンズ様が暑そうなので風にあたりに行こうと言っているのです。訓練など申しておりません」


「近衛騎士なら船旅での戦闘も想定せねばならんな。その実力を見せて貰おうか。ルカごときに後れを取る様ではクロエは任せられんからな」

「親父! ルカごときとは何だ! 親父の鈍った腕ならウィキンズと二人がかりでも打ちのめしてやるぞ!」

「若輩の分際で何をぬかすか! たかが中隊長風情に後れを取る訳が無かろう! その体にわからせてやるわ!」

「おお上等だ! さっさと木剣を持って表に出ろや!」


「エーイ! 鬱陶しい! それで無くても船の中は暑苦しいのに、喧嘩なら河の中で致しなさい!」

「いや、母上。河の中では溺れてしまう…」

「メリル、水中では剣は振れんのだが…」

「二人とも往生際の悪い! いい加減諦めなさい。いい大人がみっとも無い」


 そう言うとメリル・カマンベール夫人は、クロエの隣に座ったまま硬直しているウィキンズに微笑みかけた。

「我が家の男共はバカばかりで困っているのですよ。あなたの様な優秀な方がクロエの夫になってくれるならこんなに嬉しい事はありませんよ」


「こいつはまだまだ未熟者で、ロングソードの扱いもなっちゃあいない若輩ですよ」

「カマンベール家の者でありながら三年間Bクラスに甘んじたあなたが言う言葉ではありません! 騎士は剣技もさる事ながら座学も秀でていて当たり前なのですよ。平民で三年間Aクラスの特待生を維持し続けたウィキンズさんと比べれば、どちらが優秀か火を見るより明らかです」


「母上、それでウィキンズを領地経営の為に連れて帰るなんて言うなよ。こいつには副官として中隊の事務周りを仕切って貰う為に鍛えてるんだからな」

「ルキウス、事務周りの仕事が嫌で妹の婚約者に仕事を丸投げしようとしているような、あなたの兄を見習ってはいけませんよ。あなたも秋からは予科に上がるのですからウィキンズ殿を目標に頑張りなさい」

「はい、お婆様。ウィキンズ義兄さま御指導を宜しくお願い致します」


「伯父様、わたし王都は初めてなのでとても楽しみです」

「ケレスだってあと二年したら予科生だ。王都なんて大きいばかりでつまらないところさ。王都にあるものはア・オーやクオーネに全部ある。それに食べ物も不味いし高い。美味さならア・オーのセイラカフェが国一番だ。王都のセイラカフェよりずっと美味い。王都なんていい事なしだぞ」

「ムムッ、お従兄にい様は意地悪です。だからその年まで結婚できないのです」


「そうですよ兄上、王都のファッションは素敵なんですから。ケレス、向こうに着いたらポートノイ服飾店の最新ファッションを見に行きましょう。シュナイダー商店でお買い物も致しましょう」

「ドレスで腹はふくれないぞ」

「そんな事ばかり言っているから兄上はいつまでたっても良い方が現れないのですよ」


「従妹にも妹にも罵られた。泣くぞ、本当に。なあウィキンズ、お前の嫁になる奴がお前の上司を罵ってるんだぞ。ピシリと言ってやれ」

「妹の婿に泣きつくなど見っとも無いぞルカ。近衛騎士団の中隊長の名が泣くぞ」

「そです。おじいさまのいわれるとおりでしゅ。おねえさまをいじめるのはダメです」

「ルーカス、お従兄にい様は別にケレスをいじめた訳じゃないぞ」

「そうだ、王都に着いたらハバリー亭でお菓子を買って貰いなさい。あそこのお菓子は最高ですから。ねえ兄上」


「ハバリー亭だってシュナイダー商店だってクオーネにも有るじゃないか。何も王都で無くても…」

「伯父様はそんなだから駄目なのです。今の王国の最先端は王立学校なのです。わたしは春に見えられたモンブリゾン男爵令嬢様たちから色々と聞いているのです。下級貴族寮でしか手に入らないハバリー亭のお菓子が売られているのです」


「そうね。ファナ様のお菓子は下級貴族寮での反応を見てハバリー亭で売られるようになりますものね」

「わたし、ファッションショーも見てみたいのです。クロエお従姉ねえ様の持って帰られた様なドレスが着てみたいのです」

「なんだ? それは、ウィキンズの奴がクロエを誑かした時の話か?」

「私は誑かされてなどいません! ウィキンズ様はとても紳士で素敵でした。お友達の騎士様もそれはもう…。ケイン様は残念でしたけれど」


「あいつも同期の修道女様の献身的な看病で傷が癒えて卒業式にも出れるが、このまま近衛騎士団に残ってしまうとあの修道女様はどうするんだろうなあ」

「テレーズさんもケイン様も好き合っていらっしゃるようですが、テレーズさんは聖職者ですから…。それでも同じ王都に居るのですし、ゴルゴンゾーラ公爵家の聖教会は近衛騎士団から近いですし」

「素敵なお話なのです。私も早く王立学校に行ってファッションショーで着たというお従姉ねえ様たちのドレスを見てみたいのです。帰ったらお母様にも自慢したいのです」


「ケリーお母様にも見ていただきたかったのですけれど、お留守番で残念です」

「さすがに一族全て不在ではいかんだろう。ルシオもケリーも久しぶりに夫婦二人きりで羽を伸ばしておるのではないか。その代わり帰ったら仕事が山ほど溜まっておるだろうがな。ルカ、お前も子爵家の王都での仕事の一部は見てもらうからな!」


「待ってくれ爺様、俺は近衛の中隊長の仕事が有るんだぜ。領の仕事なんか…」

「ルカ、親父殿は冗談事で言っているのではないぞ! お前も長男ならそろそろ腹を括れ。次期領主なのだからな」

「それに、カマンベール家はもう子爵家なのだ。領地経営でも今までの男爵家の様な気構えでは領主は務まらんぞ」

「そうだぞ、親父殿の言う通りだ。今は親父殿が健在でルシオも居るからどうにか回せているが、これから我が家はどんどん大きくなる。ウィキンズの様な優秀な人材が一族に必要なんだ。領地経営の手腕は期待しておるのだぞウィキンズ」


「父上もお爺様も気が早すぎます。ウィキンズ様もまだ近衛騎士団に在籍されますし、私も内務省で事務官のお仕事を頂きましたからしばらくは先の話しですわ。ねえ、ウィキンズ様」

 王都に向かう河船の中、賑やかなカマンベール子爵一家の中でウィキンズ一人が緊張で汗だくになりながらの船旅が続くのである。

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