第164話 オーブラック商会本店
【1】
旅の汗を落としてベッドサイドのテーブルに置かれた夜食を採りながら、カロリーヌはミシェルに話しかける。
「何やら下では色々と忙しくしているようですけれど、私はここで休んでいて良いのでしょうか」
「ええ、そうして頂いた方が宜しいと思います。明日の朝にはカロリーヌ様とジャンヌ様に目を通していただく財務指標の資料が完成すると思いますから、それを基に明日から今後の方針と対策を話し合う事になります。ですから今夜はゆっくりお休みになって明日にお供えください」
「あなたやアドルフィーネ達は休まなくて良いのですか? 同じように旅してきたのでしょう」
「私たちは馬車の中でゆっくりと仮眠をとっております。それに旅慣れておりますから、どちらかと言うとジャックさん達が大変だと思います」
ミシェルにそう言われて眠る事にしたのだが、カロリーヌが寝付きかけて頃合いで部屋を出て行くミシェルの気配がした。
彼女も下での資料作りに参加するのだろう。
ならば明日は彼女たちの頑張りに報いれるように、オズマの父の説得に無からなければならない。
そう思いながらも湯に浸かって食事をした為か、旅の疲れが彼女の意識を眠りの淵に引き込んでいった。
【2】
ランドック商会長は昨日娘のオズマから王家や宰相家からの手助けを受けられそうだとの手紙を貰った。
王家や宰相家そして宮廷魔導師団や近衛騎士団から融資を受けて株式組合化する話が出ているという。
西部で初めて取り入れられて、南部や北西部では新興の商会が次々に株式組合化している事は承知していた。
そして裏で動いているのがライトスミス商会であることも。
それが今回は王家や北部貴族主導で行われるという。
半信半疑ながらも王立学校の人脈でオズマが頑張ってくれたのだという事は分ったが、その口利きを聖女ジャンヌが行っている事には違和感が有った。
それが今朝になってその投資の為に聖女ジャンヌとポワトー伯爵が本店にやってくると言う。
ポワトー伯爵と言えば今巷で噂になっている
なんでもオズマと同い年ながら年嵩の異母兄たちや同母兄である跡取りを蹴落としたうえ、義父を引退に追い込んでその若さで伯爵位を継承した女傑とも悪女とも噂されている。
しかしポワトー枢機卿と言えば北部教導派の重鎮、そして
その教導派の
ただ、
多分同級生の王子殿下や宰相の御子息たちを纏めているのだろう。彼女が連れてきた使用人たちの様子を見てもかなりの傑物だろう言う事が判る。
そしてオズマが渡してくれた王都支店のこの財務指標のまとめだ。
この書類をまとめたのが今会議室で帳簿の精査をしているあの獣人属のメイドなのだ。
さっきから何度も王都支店の書類を読み直している。
これから先発生するであろう従業員一人一人に出す昼の食事や筆記具や帳簿の紙まで諸費用として賃借対象に計算されている。
そして何よりもこの商会を追い込んでいるのは使途不明金と言う名の上級貴族やその執事たちに対する賄賂であり、ハスラー聖公国の商船団に贈る余剰物資であった。
これではいくら投資を受けたところで商会の利益には繋がらない。
そして今回投資すると言っている貴族も教導派や王族の関係者ばかりだ。彼女たちの提案が果たして受け入れ可能な物なのだろうか。
期待と不安が入り乱れて考えがまとまらない。帳簿の精査にかかっている会議室に行く気にも成れない。
執務室の戻ると椅子に腰を下して素焼きの細長い容器の酒瓶を手に取った。最近入手した強い蒸留酒で、蓋を開くと独特の松脂の様な香りが鼻を突く。
あのカマンベール子爵領で最近売り出された薬酒で、特産の蒸留酒に色々な薬草やハーブを漬け込んでいるそうだ。
あの領地には色々と煮え湯を飲まされてきたが、舐めていた領地がこの二年で特産品の宝庫に代わった。
もっと上手く友好的に立ち回っていればここ迄の危機には成らなかったかもしれない。
この酒もあの領の毛織物や綿織物もチーズや加工肉も商えればかなりの儲けが期待できたのだが。
そもそも過ぎたことを悔やんでも仕方がない話であるし、あの状況で教導派のシェブリ伯爵家やライオル元伯爵家との取引にドップリ浸かってしまっていて身動きが取れない状況だった。
結局縁が無かったのだろう。
ポワトー
蒸留酒を一気に飲み干したために、急激に酔いが回ってきた。
本番は明日の
財務指標の作成とかは番頭や使用人達に任せておけば良い。
信頼できる者達だからあのメイド達の勝手にはさせないだろうし、今更隠す様な帳簿も不正な隠し資金も無い。
まあもしそんな物が出てくるならば、商会としても喜ばしい事ではないか。
そう思いつつ眠りに付いてしまうのだった。
【3】
その頃会議室はごった返していた。
北部ではまだあまり黒板が普及していない。チョークも北西部や西部から購入する為割高で手に入りにくい。
それでもオーブラック商会はカマンベール子爵領やカンボゾーラ子爵領での商売の実績もあるので一早く黒板を導入している。
とは言っても大判の物が二枚だけではあるが。
今その黒板は数字や文字が隙間なく書き込まれては消され、又書き込まれて行く。
皆疲れた顔をしているが、異様な熱気に包まれていた。
番頭から王都の財務指標の書類を見せられて説明を受けてからは、その考え方や手法に商会員も番頭も頭を打ち抜かれた様な衝撃を受けた。
そして新たな投資が受けられる可能性が大きいことが、彼らに拍車をかけた。
アドルフィーネやナデテ、そしてポール達から説明と指導を受けながら、彼らと一緒に財務指標書類の作成を始めた。
まだ成人前のルイーズやミシェルが帳簿を捌いて行く事も驚きだが、冒険者のジャックや聖職者のピエールが長年勤めている番頭よりも的確に帳場の内容を読み解いて行くのに商会員たちは舌を巻いた。
いつの間にかとても濃く点てられた煮だしコーヒーが大きなポットで置かれている。
「眠気が吹き飛ぶなあ、このコーヒーは」
ポールがブラックのままのコーヒーを飲みながら言う。
「俺としてはこんな蒸し暑い夜はジャンヌ様の麦茶が恋しいぜ」
ジャックがそれに答える。
「何ですかぁ、その麦茶ってぇ? 私ジャンヌ様付きに成って半年以上たちますがぁ、聞いた事が有りませんよぉ」
「ジャンヌ様がお作りになった飲み物ですよ。炒った大麦を煮出して、それを井戸の水で冷やして頂くのですよ。南部の夏の暑い時期に冷たい麦茶は美味しいですよ」
ピエールが懐かしそうにそう言った。
「でも何故ジャンヌ様は王立学校でお作りにならないのでしょう?」
「ただ大麦を炒っただけの農民や庶民の呑む物ですし、独特の味が有るので慣れない人は敬遠するからでしょうか。それに北部は南部のように真夏でもそう暑くなりませんしね」
アドルフィーネの問いにピエールが答えた。
「コーヒーを飲んだら切りの良いところで休んで頂戴。私たちが尻拭いをしてあげるわ。ねえ、ルイーズ」
「ええ、あなた達は一日馬で走っていたんだから無理して間違いだらけの書類を造られても迷惑なの。さっさと寝て頂戴」
職員たちにもコーヒーを入れて回っていたミシェルとルイーズがジャックたちに悪態をつく。
「お前は本当に口が減らねえなあ。今度泣かせてやるからな」
「まあ、お前の従妹も体調を気遣ってくれているんだ。切りの良いところでルイーズとミシェルに任せよう」
不貞腐れるジャックをポールが宥めながら資料作りが続けられて行く。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます