第147話 ジャンヌとオズマ(2)

【3】

 オズマはしばらく上目遣いでナデテを見ていたが、ゆっくりと口を開いた。

「港湾の…港湾の作業労働者の件です。やめろと言う訳ではありません。少し…一年…いえ半年待って欲しいのです。少しだけ手を緩めて欲しいのです」


「それは、シャピの港の事を仰っているのでしょうか」

「シャピもですがポワチエ州の全ての港町で、今救貧院が狙い撃ちにされているのです」

 それはジャンヌも良く知っている。

 聖霊歌隊の結成の為にジャンヌも色々と手助けしているのだから。


 更にオズマは続ける。

「もちろん聖霊歌隊は救貧院の仕事よりもずっと楽なお仕事だと言う事は分かっています。今の聖霊歌隊を否定するつもりは有りませんが、全ての子供たちをおやと引き離すのもかわいそうではありませんか」

 ああ、この娘は本質を判っていない。救貧院に居ようが聖霊歌隊に入ろうが親に合えない事は変わりない事を知らないのだ。


「それに、食事も宿舎も供給されています。もう少しの間だけ、聖教会工房や教室が整うまで待てなにのでしょうか? せめて親が救貧院から出れる態勢を整えてからでも良いでは無いですか」

 聖教会の司祭連中が教導派である限り工房や教室が開かれることは絶対ない。

 そして救貧院の利権を手放す事も無いのだから、いつまでたっても救われないと言う事にオズマは気付いていない。

 そうできればさっさとやっていると言いたいのをジャンヌはぐっとこらえた。


「待ってちょうだい。救貧院の子供たちは聖霊歌隊にスカウトして正当な報酬を貰っているのですよ。食事も住む場所も着る物も支給されているし、働く時間も礼拝前の四半刻だけ。五回合わせても一日に鐘一つにも満たない時間です。後は読み書きと算術の習得の方がずっと多くの時間を割かれているのですよ」

「でもそれなら、救貧院を通して聖霊歌のお仕事をご依頼されても同じ事ではありませんか」


「違うわ。衣食住に於いて救貧院よりはずっとマシな物が子供たちに支給されているのですよ。それに聖霊歌を歌った報酬は子供たちのものになるのです。救貧院ではその喜捨されたお金はどこに行くのでしょうね?」

 ジャンヌは皮肉交じりにオズマに言った。


「それは…、子供たちに与えられのではないのですか…」

「フッ…。誰に吹き込まれたか知りませんが、救貧院に行かれた事は無いのではありませんか」

「そんな事は有りません。見学をさせて頂いたことは御座います。仕事場を見せて頂いたことは何度かあります」


 ジャンヌは何となく見当がついた。

 北部の大きな商家の娘だが社会意識は高いのだろう、悪い子ではないだろうが現実を知らなすぎるのだ。

 親の伝手を頼って救貧院の見学に行ったのだろうが、そんな若輩に全てを晒すほど救貧院の幹部はお人好しでは無い。


「オズマさんは救貧院に行かれた時に作業場をご覧になったのですね。収容者にも会われたのでしょうが、宿舎はご覧になられましたか? 食堂は? 食事は御一緒されました?」

「食事は一緒にいただきました。食べられない事は有りませんが、最低限の穀物と野菜とソーセージ。味もひどいものでした。おなかが膨れる事だけが救いだと思いました」


「まあ、それは良い施設に行かれたのですね。食事にソーセージが饗される様な施設を私は今まで見た事も有りませんでした」

「…そんな」

「宿舎は酷いものですよ。法で決められているので大きな広い部屋に廊下を挟んで棺の様な箱が左右に全部で五十並べられているのです。そここそが寝床で、個人のスペースです。私物は一切持ち込めません。有るのは支給された作業服だけ」


「仕事場でどんな仕事をしているのを見たか判りませんが、作業時間は一日の半分。昼食も入れて三回の休憩が挟まれますが、それ以外は作業時間です。それに仕事はかなり苛酷な肉体労働や不衛生な単純労働なのです」

「私が見学した時は聖教会の大掃除をさせられていました…」

「毎日がそんな仕事ばかりだと冷静に考えてそう言えますか?」

「…いえ、浅はかでした。聖教会の大掃除なんてそう毎日するものでも無いし、そもそも毎日の掃除は修道士たちのお仕事ですしね」


「それではジャンヌ様。救貧院での報酬はそれなら一体どこに行っているのですか?」

「そもそも救貧院の労働報酬がそのまま横滑りに運営資金として流れる仕組みになっているのです。宿舎代や食費や制服代としてすべて使用されると謳われております」

「と言う事は事実はそうで無いと仰るのですか?」

「すべての救貧院がそうとは申しませんが、少なくとも法律通りの運営をしている救貧院はついぞ知りません」


「では一体お金はどこに?」

「法律により最低限の食費代と維持費は各地域の領主が負担いたします。余剰な収入は法律ではそれに上乗せされるはずですが、大抵は救貧院を実質的に運営する聖教会の幹部の懐に入っていますね」

「そんな…、司祭様たちがですか」

「もちろん救貧院の幹部も着服する者は居るでしょうし、領主の懐に収まる事もありますよ。場所によっては雇った商会主が賃金を払わない事も当然御座います」


 オズマの顔色がどんどん悪くなってゆく。

「…それでも…父は…父の商会は、給金を支払っていると思います…」

 オズマが消え入りそうな声でそう告げた。


「商会が厳しいのです。…父の商会が苦境なのです。身勝手なお願では御座いますがお頼みいたします。ジャンヌ様…どうか、どうかお口添えだけでも…」

 オズマの頬に涙が伝わった。


 ジャンヌはオズマの肩に手を置いて口を開いた。

「オズマさんがお優しい方だと言う事は知っています。今の北部の現状が間違っていると認識されて、何か変えて行きたいと思っている事も知っています。…だから本当の事を聞かせて下さい。取り繕った言葉では無くてあなたの置かれている状況を教えていただけないでしょうか」


 オズマは顔を上げて、涙をためた眼でジャンヌの顔を見上げた。

「私の実家は以前お話した通り北部ではかなり名の通った商会なのです。ハスラー聖公国から海路で輸入された商品を手掛けている商会で、北部を中心に手広く商売をしています。特に宮廷貴族家に食い込んで利益を上げてきた流通業を主な生業としている商会です」

「それではご実家は王都なのですか?」

「いえ、北部のハッスル神聖国との国境沿いの港町で、オーブラック州を本拠にしているオーブラック商会と申します」

 ジャンヌもオズマの気付かなかった、それを聞いたナデテの顔が一瞬引きつった事に。

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