第108話 高等学問所(2)

【2】

 かつての司祭長室の私室であったと言われる大きな部屋に案内された。今は研究室らしい。

 中に入ると壁一面にびっしりと黒板が貼り付けられ、正面の壁には大きな未完成の対数表が貼り付けられている。

 部屋の中には雑な造りの机と椅子が無造作に散らかっており、その机で学生たちが一心不乱に算盤を弾く音が響いている。

 床には種族や男女の隔たり無く汚れた毛布を纏った者があちこちに転がっている。


 自由というより無秩序と表現した方が良い状態である。

「この部屋はラグの質が良いので、皆入り浸って部屋に帰ろうとしないのです。ここを研究室にしたのは失敗でした」

 ニワンゴの言う通り床の絨毯はかなりの高級品の様でやわらかいが、チョークの埃とインクの染みで汚れて見る影もない。

 壁や柱にも手の込んだ彫刻が施されていたようだが、無情にも釘が打ちつけられて黒板が掛かっている。


「司祭長の私室だったのですよね。ここにあった物はいったい…」

「ええ、不要なので売却しました。見積り査定をして頂いたのですが、北部や東部の商人の方は信用できませんね。匿名で八組の商店に見積もりを依頼したのですがアヴァロン州の商人の方が一番良い値をつけて下さいました。南部の商人は材質や細工の良しあしを見る目は有るのですが、付加価値を見極めるのは苦手のようですね」

 二束三文で売り飛ばしたのかと思っていたが、この人割としたたかだ。


「あの壁板の細工物とかは…?」

「南部の方が言うには彫刻の出来が甘いそうで、柱を外して取り替えると逆に高くつくと仰られたので。黒板をぶら下げています」

 ニワンゴの言う通り壁に彫刻された聖者の目玉に釘が打ちつけられて立派な黒板が掛かっている。


「皆さん! さあ、こちらに注目してください。寝ている人たちも起きなさい! 御領主さまのご令嬢のセイラ様が見えられたのですよ!」

 ニワンゴの声に学生たちがノロノロと顔を上げたが、明らかに迷惑そうである。

 領主の娘がなんだ計算の手を止めるな、程度にしか思っていないのだろう。

「知らない方はお聞きなさい! この方が一番初めに対数の重要性に気付いたのですよ! 掛け算を足し算に出来ると言い当てた方ですよ!」


 床に転がっていたボロクズの様な男女が飛び起きた。机の学生たちも一斉に立ち上がった。

「セイラ様、複利計算の場合元金1を年利1として計算した場合この対数を応用すると…」

「樽で熟成している蒸留酒のアルコールが常に一定量で蒸発しているとして対数を使って元の樽ののアルコール量を…」

 一斉に質問が始まった。

 止めてよそんな紹介のしかたは…。私は数学の沼にハマるつもりは無いんだから。


「落ち着いて! 私は研究者じゃありませんし、今日は領主の娘として来ました。皆さんにこの学問所に問題や要望は無いか伺いに来たのです」


「研究時間が足りない。トイレに行くのも面倒だ」

「食事をする為に食堂に行きたくない」

「ここに寝床を持ってきて欲しい」

 引きこもりのゲームオタクみたいな発言が連発される。


「あの、彼らは本当によくやってくれているのですよ。問題も有りますが財務関係の仕事は人の何倍もこなしてくれます」

「そうですよ。僕たちにかかれば節税もばっちりです」

 私は軽い眩暈を覚えた。そうだろう、みんな有能なんだろうがそんな事じゃあないんだ。


「皆さん、ちゃんと食事はとっているのですか。睡眠は足りているのですか」

「そんな時間勿体ないです」

「大切な研究の時間を無駄な事に削りたくありません」

 さすがにこの言い分には切れた。


「いい加減にしなさい! そんな事をして病気にでもなったらどうするんですか! そうなれば大切な研究も出来なくなるのですよ!」

「でも…」

「でもも、しかしも、有りません。ニワンゴ司祭長様、食事の時間を決めて全員に守らせてください。それから午後の四の鐘が鳴ったならこの建物の灯りは全部消してください。睡眠の時間です」

「そんな! せめて午前の一の鐘まで…」

「じゃあ、午後の五の鐘までは許しましょう。その代わり食事の時間と睡眠時間が守れない者は、翌日は一日休養日で一切の仕事や研究は禁止します」

「横暴です!」

「それは酷すぎです」

「そうですよ! そんなこと許されない」

「許されるのですよ。あなた達の健康管理は領主一族の仕事です! それから半年に一回は治癒院で健康指導も義務付けましょう」

「…ああ」

 あなた達は何故そんなこの世の終わりのような顔をする。


【3】

 他の講義室をとニワンゴには言われたが、研究者たちの健康状態が気になったので食堂に案内して貰う事にした。

 案の定 食堂は食堂の態を成していなかった。

 食堂のテーブルの上には書類が散乱しテーブルも床もインクの染みだらけ、左手でチーズやハムの載った黒パンのオープンサンドを頬張りながら目は一心に書類に注がれている。


 パンの上に零れたインクもお構いなしに口に運んでいる。

「ニワンゴ司祭長様、ここの食事はこのゴッダードブレッドやファナセイラばかりなのですか」

「いえ、そんな事は有りませんよ。私はここの食事が美味しくて太ってしまいましたもの」

 にこやかに微笑むニワンゴ司祭長にも言いたい事は沢山あるがグッと飲みこんで厨房に向かった。


 二人の調理人が所在なげに黒パンを切っている。元々セイラカフェで調理をしていたメンバーだ。

「二人とも、聞きたいことが有るの」

「あっ、セイラ様。お帰りなさいませ」

「ここの食堂に事、気になったので教えてくれないかしら。なんでも良いわ、問題が無いかしら?」

「問題だらけですよ。ここの研究者たちは食事に関心が無いんです。手が塞がるからカトラリーを使わない、雫が垂れるから汁物は要らないそんな事ばかり言って皆左手で手掴みで食べられるものしか食べないんです」

「ええ、一部の研究者でそんな困った方もおられますが…」

「司祭長様! ほとんどの研究者がそうです。ちゃんと食事をとられるのは司祭長様と一部の講師の方だけです!」

「…あの…、ゴメンなさい」

「シチューを呑んでくれるかと思って白パンからライ麦パンに変えてみたのですが、全然反応は変わりません。味の工夫以前の問題です」

「パンに乗せる具材もホウレン草や玉ねぎのソテーをつけたのですが、こぼれるからと言ってハムやチーズだけで野菜も食べてくれません」

 ライ麦パンは固いし酸味もきつい。普通なら白パンからライ麦パンに変われば文句が出そうなものだが、味に関心が無いのだろう。

 栄養価が高いく安いライ麦パンで構わないのなら、それは良いのだがこの食生活は不健康だ。


「食堂内に筆記用具や書類の持ち込み禁止! 食事はお残し禁止! 残したら全部食べるまで食堂から出さないからね」

 一斉に食堂内の研究者たちからブーイングが起こるが無視だ! 無視! こいつら小学生よりたちが悪い。

 こいつらの私生活は引きこもりのニート並みだ。ゲームが仕事と数学に変わっただけでやっている事は引きこもり同然なのだ。

 粗食で文句も言わず贅沢もせず仕事をこなすので、誰も気にしていないようだがこいつら全員ダメ人間だ。


「この子たちはよく頑張ってくれています。お仕事は有能なのですよ」

「あなた達! ニワンゴ司祭長様が優しいと思ってつけ上がっているんじゃないの! あなた達がそんな事だから足を引っ張ろうとする者が出て来るんですよ! ニワンゴ様の恩に報いる気が有るなら生活態度を改めなさい!」

 何となくシルラ副司祭のニワンゴ司祭長に対する不満の根幹が見えてきた。


 シルラの暗躍に対しては鷹揚に対応しているニワンゴは、財務面に関しては非常に厳しいのだろう。

 ハウザー王国で育ち贅沢を知らない彼女や清貧派として質素を旨として暮らしてきたアナ司祭と教導派で贅沢が当たり前だったシルラ副司祭との認識のズレが根幹に有るのだろ。

 先ずは足を掬われない様にここの研究者たちの生活習慣の改善を進める事にした。

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