第107話 高等学問所(1)

【1】

 村々の説得工作はジャンヌとアナに任せて、私はニワンゴの下へ向かった。

 聖堂の隣には三階建ての立派な司祭館が有った。

 ニワンゴは今そこに居る。


 そう言うと司祭館に君臨しているように思えるがそうではない。司祭館は廃止してその棟全部を高等学問所にしたのだ。

 教導派の司祭や聖導師の執務室や居室に加えて、教導騎士や使用人宿舎も併設されていたのだが、大半はロワールに引き上げてしまった。

 残ったのが先程の副司祭一派と言う事になるのだろう。

 彼らは司祭館を追い出され、ニワンゴやアナと同じ修道士宿舎に住んでいる。


 そして司祭館は講義室や研究室に改装されて、使用人宿舎が司祭長の執務室と職員の執務室になっている。

 そのまま残ったのは厨房と大食堂だけだ。

 施設の準備より先に研究希望者が溢れて手が回らない状態が続いている。

 ニワンゴ司祭長とクオーネの街で一緒に研究を進めていたメンバーたちを根こそぎこの街に連れてきたのだが、それでも手一杯で対数表の研究も滞っている。最近は噂を聞いて近隣の州から学徒が次々にやって来ているので、近くにあった教導騎士団の宿舎や職員寮の一部を学生寮として貸し出している。

 中にはテントと食料を持参で野宿覚悟でやってきた猛者もいる。情熱の有る数学者候補が噂を聞いて次々に集まってきているのだ。


 今でも道端で地面に数式を描きながらあちこちで議論を戦わせている集団がいる。

 数学者という連中は場所も時間も弁えず没頭しだす後先を考えない奴らの何と多い事か。

 これではニワンゴ師の苦労も絶えないだろう。

 何か良い方法は無いか考えつつニワンゴ司祭の執務室に向かった。


「セイラ様! お帰りになられていたのですか? ご挨拶にも行けず失礼いたしました」

 机の上にも側机にも書類が積まれ三か所に立てられた黒板にはびっしりと数式が書き連ねられている。

 部屋の中はチョークの埃で煙っている様だ。

 そしてニワンゴ司祭長はチョークの粉まみれで、寝ていないのだろうか目の下にクマが出来ている。

 見た目もやつれて…は、いないな。若干太ったような気がするが。

「ニワンゴ司祭様、お疲れでは無いのですか? お眠りになっていないようですが」


「ああ、そうですね。ごめんなさいセイラ様。昨日執務が終わって計算を始めたらついつい熱中してしまいまして…お恥ずかしい限りで御座います」

 あれ? この様子は平常運転のようだ。アナ司祭とシルラ副司祭の話から悪い想像していたが、そんな様子はないようだ。

「研究に没頭できる時間は夜だけなので、ついつい寝不足気味になってしまいます」

 そう言ってバツが悪そうに微笑むニワンゴ司祭長は元気そうだ。


「聖教会の運営で困った事などは御座いませんか。私が無理を言って来ていただきましたから、資金や人手でご不便やご苦労が御有りなら直ぐにでも言って頂ければ善処致しますよ」


「あっいえ、それは大丈夫ですよ。この元の司祭館には不要な物が沢山御座いまして、改装費用も備品費も全てそちらで賄う事が出来ました。人材もクオーネの研究室から私たちを追ってきた方々が、学べるなら給金はいらぬといってお手伝いして下さっておりますし。それに感化された学徒たちも同様に学問所の運営に参加して頂いて。お陰で私は聖堂の改装や治癒院の設置に労力を割けて助かっております。ああ、治癒院の改装費用も聖堂内の不要物の売却益で賄えましたのでご安心ください」


 アナは この人実務力は有ると 言っていたけれどムチャムチャ有能じゃないか。

 ただ学問所の職場環境は完全にブラック職場じゃないのか? 学徒たちの言葉通り無休で扱き使っていたりしていないだろうなあ。


「ニワンゴ司祭様。人事面などで問題は御座いませんか?」

「そうですねえ。アナ様は治癒士の講師としても指導者としても有能で御座いますし、他の術士たちからの信頼も厚く患者の方たちからは慕われ敬われていらっしゃいます。さすがに聖女ジャンヌ様の一番弟子ですわ」

「アナ様は兎も角、シルラ副司祭は如何なのでしょう?」

「シルラ副司祭様も有能な方でいらっしゃいますよ。村長様や地主様方との交渉を一手に引き受けて下さっていますし、今はフィリップ様がなさっていますがそれまでは商工会や大店との交渉も行っておられました。まあ、難を言えばお二人とも財務端には疎いのが玉に瑕と申しましょうか。まあその辺りは私たちが回しておりますからフィリポの聖教会では無駄なく効率的に運営されておりますよ」


 どうもアナ司祭とニワンゴ司祭長とシルラ副司祭の言動が微妙に食い違う。

 ニワンゴ司祭長の人となりは良く知っているので、彼女の言う事に偽りはないだろうし、今の二人の評価も本心だろう。


 シルラ副司祭はニワンゴ司祭長に不満タラタラであったようだが、実績を聞く限り非常に有能である。彼女の事だから財務データもまとめて有るだろうし穴も無いだろう。

 アナ司祭もニワンゴ司祭長の実務力は太鼓判を押していた。すくなくとも彼女の眼から見て有能だと判断できると言う事だ。


 意見が割れるのはシルラ副司祭の評価もだ。

 お人好しのニワンゴ司祭長が丸め込まれているなら、シルラ副司祭はああも文句を言わないだろう。

 かと言ってシルラ副司祭を出し抜いて何かしようなどと言う器用な事がニワンゴ司祭長に出来るはずもない。


「ニワンゴ司祭長様。お話を聞く限りではシルラ副司祭は聖堂の運営を引き受けていらっしゃると言う事なのでしょうか? あの方は実務を担当している仰っておりましたが」

「ああ、セイラ様お間違い無きように。聖堂のお務めは私が司祭長として携わっております。信徒様たちへの御奉仕も恙無く執り行っておりますし、日々のお務めも私が行っております」

「…それではシルラ副司祭は一体何をしているのですか」

 実務を取り仕切るどころか、全てニワンゴ司祭長が回しているのではないか。

「私のお手伝いもお願いしておりますし、先ほど申した村々の代表の方やそちらの聖教会の陳情や話し合いを担当されておりますよ。そう言う事は苦手なので助かっておりますわ」


 シルラ副司祭の胡散臭さに何も気づかないのか? いやそんな事は無いだろう。彼女はもっと胡散臭い人物をとてもよく知っているのだから。

 多分外部交渉と言うのはそう言うものだと割り切っているのだろう。


 シルラ副司祭が連呼していた実務と言うのがその事なのだろうが何を指して言っているのか?

 聖教会の威光やら威厳やらと言っていたが、少なくともシルラ副司祭の人脈にはニワンゴ司祭長は口を挟んだりしていないようだ。

 アナ司祭も言及していたが政治向けの問題と言うのは何だろう。

 高等学問所を案内すると言うニワンゴに連れられて私は執務室を出た。

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