第106話 治癒院

【1】

 私はジャンヌと朝食が終わると聖教会の聖堂に出かけて行った。

 かつてゴッダードの聖堂がそうであったように、ここの聖堂も無駄に巨大な司祭長用の執務室やこの領には大司祭用の専用祭壇や礼拝堂や居室まで有った。


 今は一度も使われた事の無かった大司祭専用礼拝堂は治癒術士養成所の講義室になり、大司祭用執務室や居室やそれに付随する使用人室は処置室や集中治療室として使われている。

 アナと治癒術士たちが迎えてくれた。

 この先カマンベール子爵領で治癒術士養成学校のトップに成って貰わなければいけない彼女をいつまでも聖導女のままにして置くことは出来ない相談だ。

 ”自分のような罪人が司祭職など賜ることは出来ない”と固辞する彼女を宥め賺して司祭職につけるのがどれだけ苦労だったかをルーシー義母上から聞かされていた。

 今もジャンヌの両手を取って跪いて号泣している。


 ジャンヌが旧交を温めつつもポワトー枢機卿の元に送る治癒術士の人選を相談しているとドカドカと足音がして複数の聖職者たちが入ってくるのが見えた。

「こちらに聖女ジャンヌ様が見えられたとお聞きいたしまして罷り越しました。これは、セイラお嬢様おかえりなさいませ。 長旅お疲れ様でございました」

 一段の先頭にいた副司祭が私に頭を下げた。


「シルラ副司祭様、少々不躾ではございませんか」

 アナが眉をひそめて苦言を呈するが、シルラ副司祭は臆する事もなく勝手に話を続ける。

「これは失礼したアナ治癒院長。しかし実務も解らぬ研究者ばかり増えたもので、我々も手一杯なのですよ。お会いできる時にご挨拶に伺わねばなかなか機会が取れぬのです。何しろ有能な実務家は居なくなってしまいましたからな」

「ニワンゴ司祭長様はご立派に実務を取り仕切っていらっしゃるではありませんか」

「帳簿付けや財務計算が実務の全てでは無いのですよ。世の中には見えない物も有るのですよ。聖教会の権威を示さねば民に軽んじられます。聖職者の威光を示さねば領地も立ちゆきませんぞ」

「何かお義父上にご不満でも御有りなのですか?」

「いえセイラ様、そう言う訳では…。それで聖女ジャンヌ様お初にお目にかかります。私はこの聖教会でを取り仕切っておりますシルラと申します」

 そう言うとシルラ副司祭とついて来た聖職者たちが一斉に跪いて聖印を切った。


「お止め下さい。私は未だ聖職者ではございません。聖教会にお世話になる一介の平民です。そのご行為は私には過ぎたものです」

「そうです。シルラ副司祭様。一般人に対して聖印を切るのは如何なものかと思います」

「しかし、聖属性をお持ちになる方に対して不敬が有ってはなりません。ましてや先代聖女様の御子であられるのですから」


「私の母も父も聖職者ではございません。父は平民でございました」

「お父上は平民でしたが、お母上は伯爵家の血を継ぐご令嬢ではございませんか。大貴族の血を継ぐ聖女様も…」

「私の父上はそれは立派な方でございました」

「そっ…そうで御座いますな。平民としてはご立派な方で有られたと聞いております」


「命を賭して私を守りきってくだいました。私は父に…父に生かさせて貰ったのです。私は平民の父上の娘です」

 そう言い放ったジャンヌの頬に一筋の涙が流れた。

「いえ、そうで御座いますな。聖女ジャンヌ様、今日はお顔繫ぎに伺ったまで。また改めて正式にご挨拶に伺いまする」

 シルラ副司祭は慌てて立ち去って行った。


「不快な! アナ様、私は良く知らないんですがあの男は何者なんですか?」

 私の問いにアナ司祭は難しい顔で首を振った。

「この聖教会に古くから仕える副司祭様です。古くからこの教区を取り仕切っていらした方で地主の方々や村々にも影響力をお持ちで…」

 言葉を濁すアナの様子からどういう人物かは見当がついた。


「その副司祭様が司祭長であるニワンゴ様を差し置いて挨拶に来たと…」

「色々と有って焦っておられるのでしょう。昨年の夏以降、後ろ盾となる教導派司祭様や修道士がロワールに引き揚げてしまいましたし。資金源でした商工会の方々も力を落とし、救貧院も危うい状態ですから」

「それでニワンゴ司祭長はどうなのでしょう。私が請うて来ていただいた方です。ご苦労をおかけしていないでしょうか?」

「ニワンゴ様は大人しい学者肌の方ですから…。こう言う政治絡みの事に向かないお方です。それに今は高等学問所の新設の準備に忙しくて手が回らないのも御座います。事実私どもの治癒院と養成所の設立で手一杯の状況なのです」


「これはニワンゴ様たちでは荷が重すぎたのでしょうか」

「いえ、ニワンゴ様は良くやって下さっております。お忙しい中、聖教会教室も聖教会工房も軌道に乗せ、年明けから運用が始まっているのはあの方のお力です。実務力は充分にお持ちなのです。誠実なお方なので政治向けが不得手なだけで…」

 判る、良ーく判るよ。そう言うダークな汚れ仕事は、厨二レベルの恋愛脳の持ち主のあのおっさんが一手に引き受けていたからな。


 ドワンゴ司祭がいてくれればこんな事案は三日で片付けてくれるんだろうが、呼び寄せればハウザー王国の聖教会工作が瓦解してしまう。

「村々にも影響力をお持ちと言う事は、農村の聖教会教室の枷になっていると言う事なのですか?」

 ジャンヌの問いにアナは大きく頷いた。

「村長や地主には息のかかった者も多く、そんな村では聖職者も言う事を聞かず中々上手く進まない様です」

「聖職者の入れ替えなどで対処は出来ないの?」

「講師も兼ねた聖職者を送ってはいるのですが、村の生え抜きの聖職者との軋轢も有って芳しくないのです。村人もそう言う方々に逆らうのを躊躇っていると言うか…」


「要するに奴隷根性が抜けないと言う事よね。根深いけれど原因は見えてきたわね」

「私、村人や聖職者の説得に協力致します。状況を伺って気付いた事も有ります。アナ、相談に乗って頂けますか」

「ええ勿論です。ジャンヌ様とセイラ様のお役に立つならなんだって厭いません」

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