第171話 東の関所(2)

【2】

「これは一体どうしたことだ?」

 野太い男の声が響いた。

「よくぞ参られた。お待ちしておりましたぞ。たまたまルーシー・カマンベール女史とそのメイドに相まみえる事が出来ましたので、ご招待申し上げた。貴殿もゆるりと寛がれよ」

 ルーシーさんはその男の登場に驚いた固まってしまっている。

「久しぶりですな。ルーシー・カマンベール殿」

 男はそう告げるとギロリと私の方を見た。

 ヤバイ! 私は慌てて顔をそむける。


「これはこれは。久方ぶりであるな殿。あの折は本当に世話になった」

 教導騎士を護衛代わりに連れて入って来た男がそう言った。

「…ライオル伯爵様こそ息災で何よりであられます」

 私は渋々ながら声をひねり出して答えた。


「なんと! この者が! ライオル伯爵殿それで相違ございませんか? いや相違など有ろうはずも無い。この者の返答を聞けばわかる。ハハハハハ、なんという幸運だ。ライオル伯爵殿、もう事はなったも同じですぞ」

 私はナイフを持つヘレナ・ギボン司祭の右腕を掴みながら問いかける。

「それで、私がセイラ・ライトスミスだと判ってどうするおつもりです? 食事でも出していただけるのでしょうかしら」

「何もせんよ。平民の商人ごときにこの我が配慮すべきことなどない。命が惜しくば我らの言う事を聞け。ジャンヌを説得出来れば解放してやろう」


「やはり聖女ジャンヌ様はここに来るのですか?」

「答える必要はない。お前は我の話しに頷く以外の事は認めん」

 私の首にかけた左腕に力が入り体が持ち上がる。ナイフの切っ先が揺れて危なっかしい。

「ルーシー・カマンベール。お前もこの娘を殺されたくないだろう。我の言葉に従うべきだな」

「そんな事をしてタダで済むと思っているのですか? 南部諸州連合の貴族が黙っていませんよ! 西部や北西部の貴族も追随します。ロックフォール侯爵家やゴルゴンゾーラ公爵家も州を上げて抗議に出るでしょう」

「そんな脅しは通用せん。たかだか平民の一商会ごときに貴族が動こうはずも無い。金銭的に世話になっているカマンベール男爵家ならともかく上級貴族が平民など相手にするものか。そう思われるであろうライオル伯爵殿」


 それはそうだろうゴーダー子爵家やボードレール伯爵家は動くだろうが他はどうなるか判らない。

 経済的影響力は有っても平民の一商家だ。

「そうか…そうだな。我々は貴族だ。たかだか平民の商家の小娘に遠慮などいらん。この小娘はカマンベール男爵家にもジャンヌにも切り札になる」

 拙いなあ。私が首を突っ込んだせいで状況が悪化している。

 あの時逃げ延びた聖堂騎士がパブロたちに合流できれば日暮れ頃にはここに到着できるだろう。

 それ迄の間時間を稼げばどうにか反撃のチャンスも掴めるかもしれない。それまでに関所を越えてライオル伯爵領へ連れていかれるとお終いだ。


 考えていると、ルーシーさんがそっと窓の方に目配せする。私は目線だけを動かして窓を確認する。

 窓の向こうに手が見える。乾いた血にまみれた手甲が握ったり開いたりしている。

 騎士団長だ!


 私は軽く床を蹴って飛び上がり、ギボン司祭の左腕に体重を乗せる。着地と当時に、バランスを崩したギボン司祭が体勢を崩して前のめりのなった。

 そこに腰を押し込みそのまま背中にギボン司祭を乗せて、握った左腕を引きずり降ろして背負いで投げる。

 ギボン司祭はそのまま一回転してローテーブルの上に背中から落ちて行った。

 それと同時に窓板と格子が叩き折られて騎士団長が躍り込んできた。

 そこに抜刀したライオル伯爵の護衛が割って入る。


「何故? あれだけの手傷を負って何故動ける? なぜ生きている?」

 ギボン司祭が苦痛に歪んだ顔で起き上がると、騎士団長を見て驚きの声を上げる。

「さあな? これが神の思し召しと言う奴だろうさ」

「逃がすな! 窓を固めろ! 窓から逃げるぞ」

 ライオル伯爵の叫び声に呼応して、護衛が窓側に回り込む。


 私の腕を掴むとナイフをかざし叫んだ。

「取り敢えずこいつを連れて領境を抜けるぞ!」

 騎士団長がライオル伯爵のもとに駆け寄ろうとするのを護衛兵が遮る。

「セイラさん!」

 ルーシーさんがライオル伯爵の腕にしがみつき、私は引きずられて尻もちをついた。

 ルーシーさんとライオル伯爵が揉み合いになった。

「放せ! ルーシー・カマンベール!」

 ライオル伯爵がルーシーさんを振り払おうと右手を振り回した時その手に持ったナイフがルーシーさんの脇腹に突き立った。

「アァァッ…」

 ルーシーさんが崩れ落ちる。

 慌ててナイフを引き抜いたライオル伯爵は一瞬硬直して立ちすくんだ。

「ルーシーさん!!」

 頭より先に体が動いた。

 私はルーシーさんの傷口に両手を押し当てると傷口のを両手で抑える。


「痴れ者!」

 騎士団長が怒りに任せて剣を振るうさまをもう私は見えていなかった。

「止まれ。血よ止まって」

 もうルーシーさんの回復以外何も考えられない。

 あふれ出ていた血が止まって行くのが解る。

 傷はかなり深い。

 全神経を集中してナイフの通った後を塞いで行く。今の未熟な私にはそれだけで一杯だ。

 破傷風や感染症の不安が頭をよぎるが、対象方法が解らない。傷口の復元と抵抗力の向上を願い力を注いで行く。


 頭がフラフラして血の気が引いていくのが解る。

 たぶん力を使い過ぎているのだろう。騎士団長を癒してから半日ほどしか経っていないのだから。

 けれど止める訳には行かない。ルーシーさんの命がかかっているのだから。


 ふらつく頭で周りの様子を見る。

 元々騎士団長の血で汚れていた私の服はルーシーさんの血で真っ赤に染まっている。

 騎士団長はライオル伯爵を押さえつけて、羽交い絞めにして私の前に座り込んで床に剣を突き立てている。

 ライオル伯爵を人質に取って周りを牽制している様だ。


 ライオル伯爵は右腕から血を流して暴れながら何か喚いていた。

 ギボン司祭は興奮した表情で両目を見開いて何かブツブツと唱え続けている。

 しかしも何も聞こえない。

 それでも霊力を流し続ける。もう視界もぼやけてきた。

 ルーシーさんの呼吸が落ち着いてきたように感じる。私ももう限界のようだ。

 目の前が真っ暗になって、意識が遠のいて行く。

 力が抜けてそのまま仰向けに体が崩れて行くがもう指一本動かす事が出来ない。

 私の意識はそのまま暗闇に沈んで行った。

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