第103話 対数と三角関数

【1】

「それは許さん! 絶対にさせぬ。わしからニワンゴを奪うような真似は絶対させん」

 怒りよりも狼狽と困惑と絶望が混じったような叫びであった。最後の方はもう震え声だった。


「ここで…この土地でやればよいだろう。それが無理ならメリージャでも良いではないか。この村は穏やかで裕福…ではないがそれでも周辺の村よりは豊かで…工房の仕事で村の子らも飢える事無く…」

「司祭様…」

「だから、だからニワンゴ聖導女。ここで子らを村人を導いて…」


「えーい! ごちゃごちゃと鬱陶しい! 御託は良いんだよ! 惚れてんならはっきり言っちまえ!」

 父ちゃんの怒鳴り声が響いた。

「ちっ違う! わしは別にそんな…。わしは聖職者だ。生涯不犯を貫くものであって…。ニワンゴも聖導女で…。それは昔から妹のような者で…」

 どんどんと司祭の声は小さくなり最後は消え入りそうな声にまで変わった。


「だから御託は後にしろよ。あんたは今までニワンゴ聖導女の為に色々と画策してきたんだろう。…多分だがな」

 そう言う訳だったのか。こういうところは父ちゃんの方が鋭いなあ。

 これで色々と納得できたけれど、なかなかの情熱家じゃないかこの司祭様。暴走気味だけれど見直したよ。


「しっ司祭様…。私は…その…あの…。どこにも参りません。ですから…」

 ニワンゴ聖導女は真っ赤になて俯きながらごにょごにょとドミンゴ司祭に告げる。

「何言っているんです! それは駄目ですよ。そもそもニワンゴ聖導女様が見つけた理論ではないですか。この先千年歴史に名を刻まれる偉業だと心得てください。名誉よりも何よりあなた方は、愛する数学が世に認められる瞬間に立ち会っているのですから」


「なあドミンゴ司祭様。アンタも男なら惚れた女を晴れ舞台に送り出してやる度量を見せたらどうだ? あんたがしっかりここを守ってくれているんなら絶対ここに帰ってくるさ。そうだろうニワンゴさん」

「ああ…ええ…。司祭様…。私は…」

「言うな。言っても詮無きことだ。ニワンゴ聖導女よ、其方にはアヴァロン州での布教を命じる。彼の地にて虐げられし獣人属の民の救済と信仰を守る使命を与える」

「司祭様…ありがとうございます。必ずや役目を全うして一日でも早く此の地に帰って参ります」

「…いや。良い。…此の地を忘れずにいてくれれば…。其方が生まれ学問を育んだ地として忘れずにいてくれればそれで十分だ」

「嫌です。一族が居て、生まれて、育って、私の何より大切な方が守り慈しんでおられる地です。私が帰るべき場所は此処しか御座いません。必ず帰って参ります」

「ニワンゴよ…。その言葉だけで十分だ。このものに創造神の祝福とお導きが有らんことを」

 そう言ってドミンゴ司祭は聖印を切った。


 …ああ。ああ、甘々の韓流ドラマを見せられているようで口の中までベトベトしそう。

 おまけに二人とも聖職者なのでプラトニックだと言う事に成るともう…。本当にな気分だ。

「なあセイラ…。煽ったのは俺なんだけどよー。きついよなー」

「うん、まさかあの腹黒司祭様がこんなとは思わないよねえー」

「こうなりゃ仕方ねえ。俺も気合入れてバックアップするから使える奴は引っさらえて連れて行こう。要は計算だ。大人数でかかればそれだけ早く進むんだから」


【2】

 それから一息ついて二人を落ち着かせた後、これからの進め方を話し合う事にした。

 この村はドミンゴ司祭が聖年式を経て修道士見習いとして初めて修行を始めた村だったそうだ。

 元々鳥獣人が多い地域で、そこに南部からの脱走農奴たちを受け入れて成り立った村だそうだ。

 そのため近隣の村からは低く見られており、いわれのない差別も受けていた。


 領主に搾取され商人に財産も取り上げられて一家離散して、世の中の汚れた部分を見てきたドミンゴ少年修道士見習いをこの村は暖かく迎えてくれたと言う。

 そもそも福音派から虐げられている鳥獣人と脱走農奴の村だ。必然的に清貧派になるのは当然の帰結である。

 五年この聖教会で修行して聖導師見習いになり、メリージャの大聖堂に入ってさらに数年。

 聖導師になり赴任先にこの村を希望して帰ってきて、それからは村の為になる事なら何でもして清貧派の司祭迄成り上がった。

 後は権力をフル活用してメリージャの大聖堂で悪逆を尽くし全てこの村に還元していたという次第である。


 ニワンゴ聖導女はドミンゴ司祭の五つ下で、ドミンゴが修行に来た時に彼から読み書きを教えてもらったそうだ。

 そしてドミンゴがメリージャ大聖堂に移る時に、ドミンゴを慕って聖人の宣誓を行い修道女見習いになった。

 そして故郷の村で数学を学びながら修道女としてずっと務めてきたそうだ。


「ニワンゴ聖導女様と一緒にあと数人数学の能力の高い者をアヴァロン州に連れて帰りたい。あちらで一緒にアバカス教室や聖教会の手伝いを行いつつ理論の検証と表の作成を補助できる人材を」


「「「そっそれは本当で御座いますか。わたくし共も参加できるのでしょうか」」」

 何人かの鳥獣人が話に食いついてきた。

「特に数学に精通した方がおられれば数人お雇したいと思います。鳥獣人の方がたは数学に造詣が深いと伺いました。この地でも後進の育成とニワンゴ様の理論以外にも数学理論の研鑽を進めていただければ、或いは新しい導きが訪れるかもしれません。ハウザーとラスカルで学問の交流も活発になるのではないでしょうか」


「おお、かつて三角関数表が世に現れた時のように、新たにニワンゴ聖導女様の理論が表になって行くのですな」

 …三角関数表!? そう言えば有ったなあ。(俺)の世界でも、古代紀元前から有ったよなあ。


「父ちゃん…。三角関数表って…? 有るの?」

「ああ、有るぞ昔から。建築や機械設計には必需品だろうぜ。お前は見た事無いか? 工房の奥の手板に大事に保管しているやつを」

「なあ父ちゃん。三角関数が簡単にできる計算機が出来ると言えば金を出す奴は居るかい?」

「そりゃあもちろん建築や木工機械に携わる工房や測量をする役所なんかでも引っ張ってこれるぞ」

「それなら上手く行けばやりようがあるかもしんない。数年で片が付くかもだよ」

「フッフッフ。何か思いついたのか。帰ったらじっくりと聞かせてくれよ」

「ああ、父ちゃんや出来ればゴルゴンゾーラ卿も巻き込みたしね」


「すまぬ。又何か企んでおるようだが少しこれからの話をつめても良いかな」

「企むとは心外な。何もセイラお嬢様と旦那様は…」

「良いわルイーズ。それでドミンゴ司祭様、ニワンゴ聖導女様をアヴァロン州のクオーネ大聖堂への派遣の了承と出来れば修道士様も一人つけていただければ助かります。あとは数学に特に造詣が深い方を三人選抜していただけないでしょうか。この三人についてはライトスミス商会の職員として雇用し聖職者お二人のお手伝いと理論の検証をお願い致します」


「それならセイラ、こっちでも手伝って貰うようにしちゃあどうだ。ここの住人なら新型のアバカスを使えるだろう。黒板もチョークもここで作る事に成るしな」

「そうだね。そうして貰おうか」


「ではドミンゴ司祭様。この村でもアヴァロンで作成された計算結果の検算と検証をお願いするという事で作業の速度を速めたいと思います。ご協力いただけるでしょうか」

「それはもちろん構わんぞ。有志を募れば参加する者も多数おるだろう」

「ならば計算一つに銅貨十枚。間違いの発見者は銀貨一枚。検証は人を変えて三人で行う事と致します」


「それで…。ニワンゴの派遣期間は…?」

「まずは三年で、進捗状況によって契約を延長して最長六年まで。目途が立って引継ぎが可能なら随時検討する事にしましょう」

「司祭様、必ずや三年以内に成し遂げて帰って参ります」

「おう、期待しておるぞ」


 二人して頬を染めてまあ…。

 予定以上の大収穫だし、契約も上手く行きそうなので良しと致しましょう。

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