第102話 素数

【1】

「其の方たちも何故? この教区に不満があるのか? ラスカル王国の聖教会は獣人属の聖職者すらいないところだぞ。ハスラー王国よりずっとつらい目に遭うかもしれんのだぞ」

「…すみませんドミンゴ司祭様。けれど今のセイラ様のお話を伺ってしまうと気持ちの昂ぶりが抑えきれないのです」

「ええアヴァロン州でもその知識を使用して後進の指導をお願い致したいのです。アバカス教室の指導者として若者の育成を」


「いったい今の会話のどこにその様な物が有った。チョークの販売数の話だろう…」

「素数で御座います司祭様。この概念を理解しておられる方がいるだけでも心が揺り動かされてしまうのです。セイラ様は幾つ迄計算なされました?」

「すみません、九十七迄しか知らないのです。専門と言う訳でもありませんので」

「セイラ様、この男は素数好きで、庭仕事をしながら地面に数字を書いて六千六百八十九までたどり着きましたぞ。一応わしらは一万九百九迄記録はしておるのですがな。この男は一から数え直しておるのです」


 呆然とするドミンゴ司祭と父ちゃんは完全に蚊帳の外に放り出された。

「そう言えば、ニワンゴ聖導女は面白い事を始めておるのです。なんとも変な計算になるのですがこれが実に面白い」

 最年長らしき初老の男性がニワンゴ聖導女の調べている数学課題について述べるように促した。


「あまり大したことでは無いのですよ。指数をご存じですか? 累乗の計算をする時に指数を乗せると簡単に表せるのならその逆も出来ないかと思ったのです。それで二の段を一万迄計算してみて表に書いてみると、面白い事に指数を足し算した位置に来るのが累乗を掛け算した答えの位置に…」

 私は茫然としてその説明を聞いていた…いやもうすでに聞こえていなかった。

 私(俺)は一体、何という瞬間に立ち会っているのだろう?

 余りの興奮に頭が真っ白になり、そのまま倒れてしまったのだ。


【2】

 しばらくして目を開けると私はソファーに寝かされていた。周りを鳥獣人達と父ちゃんが取り囲んでいた。

 父ちゃんは眼を開いた私を抱え起こすと、ルイーズが水の入ったグラスを持って駆け込んできた。

 私はグラスを受け取ると一息で飲み干す。


「セイラ…いったいどうしちまったんだ。丈夫なお前がこんな事になるなんて…」

 父ちゃんがオロオロと私に言った。

「セイラお嬢様、一体如何なされました。やはり長旅で体調がすぐれなかったのですか? 私が付いていながら気づきもせずに申し訳御座いません」

「違うのよルイーズ。少し興奮しすぎて頭に血が上り過ぎただけだから」


 私は起き上がるとソファーに座り直した。

「すみませんドワンゴ司祭様、ニワンゴ聖導女様、そして鳥獣人の皆様方。少々見苦しい姿を晒してしまいました」

「いやそれは構わぬが、大丈夫なのか体調は?」

「ええ先ほども申しました通り少し興奮しただけです」

「いやそれなら良いのだが、いったい何にそれほど興奮したと言うのだ」


「もしや私の話に何か差し障りでも御座いましたでしょうか」

 おずおずとニワンゴ修道女が口を開く。

「その様な事が有るはずなかろう。そんなことは絶対にあるはずが無い!」

 私より先にドワンゴ司祭が否定する。

 何をこの人は入れ込んでいるのだろう。謎だ。


「ええもちろん差し障りなど有ろうはず御座いません。ただニワンゴ聖導女様の理論が素晴らしかったので、興奮してしまったのです」

「その様なお褒めに預かるほどの理論とまでは申せません」

「その様な事は有りません! 今数学に革命が起ころうとしているのですよ! 私はその場に居合わせている! この興奮がお分かりにならないのでしょうか!」


「エーイ! セイラ! 落ち着け。お前らしくない」

 父ちゃんのゲンコツが頭に炸裂した。

「イテー! ……! ありがとう父ちゃん。でも力いっぱい殴りやがって、後で覚えてろ…」

「ルイーズ、バケツに水を汲んでおけ。次からは頭から水をかけてやる!」

「旦那様~…!」


「オスカー様も落ち着いて下さいませ。セイラ様いったい何を仰っているのか意味がわかりません」

 ニワンゴ聖導女の戸惑いに答えて、話を続ける。

「すみませんがどなたか物差しを二本と糸と針を数本それから木の板を一枚持って来て下さいまし」

 私は誰にともなく告げると下級職員の一人が慌ててドアの向こうへ走り出した。


 しばらく待つ間にルイーズが水差しからグラスに水を注いでくれた。

 私は興奮を抑えつつグラスの水で口を湿らせる。

 たいして話をした訳でも無いのに口の中がカラカラなのだ。

 やがて希望する物差しと針と糸と板が届いた。


 私は手早く板に針を二本立ててそこに糸を渡す。そして糸の下に二本の物差しを上下に並べた。

「五+三を計算してみましょう。よく見ていてください三本の物差しのゼロの部分を揃えてこう並べます」

 二本の物差しをゼロを合わせてきれいに重ねて並べた。そして上下の物差しを固定して上の物差しのゼロ部分が下の物差しの五の部分に来るように動かす。

 そして二本の物差しがぶれないように固定しながら、糸の下で真ん中の物差しの三部分に糸が来るように二本を動かす。


「おお、下の物差しの八の位置を糸が指してらあ」

「おお本当ですな。物差しと糸で足し算の計算が出来ておるな」

 父ちゃんとドワンゴ司祭が感心したように首を頷かせている。


「いえ、それは当然ですぞ。五の上に三を乗せただけですから…」

 リーダー格の鳥獣人が話しかけて何かに気付いたように口ごもる。

 ニワンゴ聖導女は驚いたように口をパクパクさせている。

 私は二人を見てニヤリと笑った。


「お二人はお気づきの様ですね。この物差しの上にもう一本、ニワンゴ聖導女様の考えた数値を刻んだ物差しを並べると…」

「「掛け算が出来る!!」」

「その通りです。そうなれば、上のニワンゴ聖導女様の物差しを糸の位置に持って来て下に二番目の物差しを置けば割り算の出来上がりです」


 鳥獣人たち全員に衝撃が走った。

 口々に興奮した言葉がこぼれだして収拾がつかなくなっている。

 父ちゃんは困惑して私に尋ねてきた。

「いったいどう言う事なんだ?」

「だから父ちゃん。足し算を掛け算に変換する方法がニワンゴ聖導女様の理論で導き出されたのよ。そして新しい計算機が発明されるかもしれないのよ」

「お前のアバカスじゃあ駄目なのか?」

「精密な計算機が出来れば複利計算が簡単にできるよ」

「おまっ…お前…セイラ! お前それは大変な事だぞ!」

 やっと父ちゃんも事の重大さに気付いた様だ。


「ただしそれはニワンゴ聖導女様の計算表がどこまで精度を上げられるかによるんだよ。それに理論の検証と証明も必要だしやるべき事はとても多いんだ。直ぐに作るのは無理だけれど、作れる事は判るんだよね」

 ジョン・ネイピアは対数理論と対数表を完成させるのに二十年かけた。

 今この理論はこの世界で産声を上げたところだ。完成するまでかなりの年月がかかるだろう。


「おいセイラ! 商会から資金を出せ! ニワンゴ聖導女様を雇い入れてクオーネでアバカス教室をやりながらこの研究を続けさせろ。時間がかかっても絶対に大金になる。お前の子供が商会を継ぐ頃には儲けの出る事業になっているだろう」

 父ちゃんは将来性を見込んで彼らに投資するつもりのようだ。

 商会のバックアップで人を雇えば、場合によっては数年で目途がつくかもしれない。

(俺)の知識を使えばさらに短縮は可能なのだが…。(俺)が自分の知識で対数の理論構築にどれだけ関わって行けば良いか?


 生憎(俺)は数学者じゃない、商人だ。その上私はやることがまだまだ他に沢山ある。

 数学の沼にハマっているほどの才能も無ければ時間も無いのだ。これ以上口出しをするとこの沼から抜け出せなくなるかもしれない。

 それはご免だ。もう嵌りかけてるんだから逃げる方法を考える方が先だった。


「そっ…それは許さん! 絶対に許さん…」

 今まで蚊帳の外に置かれていたドワンゴ司祭の声が部屋に響き渡った。

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