名もなきファンタズマ2 華琳

『いつもありがとう』


いつも美味しいご飯を作ってくれる彼女に、俺からの些細なお返し。

エプロンをしてキッチンに立つ。いざ取り掛かろうと包丁を手に取ったとき、ふとダイニングの彼女が目に入った。青い顔で、じっと俺の手元を見つめている。そんなに俺の包丁捌きが心配? 大丈夫だって、心配症だな本当に。確かに包丁の扱いには慣れてないけどさ、俺は普段から仕事で危険物を取り扱って……痛っ。あぁ、こういうことを言った矢先に。うっかり切ってしまった指先から一滴、ぼたり、と血が落ちた。やっちゃったぜ、と苦笑してダイニングの彼女に目をやった。

太腿の上で拳を握り締める彼女の膝から下は、手元のまな板の上にある。




『得物論』


 短刀なんかでちまちま一人ずつ殺るより、でけぇ武器ブン回して一気に狩った方が愉しい、という意見に全く同意できないわけでもない。事実そう考えた時期もあって、試しに武器を大鎌に変えてみたことがある。確かに一閃で狩る量は短刀の比にならない。一度にいくつも飛ぶ首の血飛沫を浴びるのも、単純に快楽に直結した。

 だが、決定的に足りないものがあった。感触である。短い得物だから感じる、あの今まさに生きている者の命を奪う、という感覚が足りなかった。武器が短いと当然、対象との距離は相当に近くなる。怨嗟の双眸、苦痛の喘鳴、心臓を貫く確かな手応え。短刀じゃなければ、どうもその愉悦を遠く感じてしまうのだ。

 やはり短刀という武器は俺に合っているのだな、と、足元に転がる死体を見ながらつくづく思う。




『ごく普通の午後五時の出来事』


テレビには、誘拐事件に巻き込まれた女の子の写真が映し出されている。可愛らしい二重、胸元に刺繍の入った白の半袖Tシャツに膝丈ジーンズ。事件はここからは遠く離れた場所で起きたらしい。可哀想に、まだ小さいのにね。茶を啜る。熱い。もうちょっと冷ませばよかったわ。ふうふう息をふきかけながら、テレビ画面に再び目を向けた。彼女は放課後、一人で書道教室に向かう途中だったらしい。三時半だからと油断していた、と女の子の両親は涙ながらに語った。三時半ねぇ、たしかにまだ明るいものね。ご近所さんから貰った煎餅を噛み割る。これ美味しいわね。また買ってきてくれないかしら、なんて図々しいことを考えた。

そのとき、スマートフォンが鳴った。ディスプレイには、息子からの『今から帰る』のメッセージ。時計を見ると、既に五時を回っていた。あらやだ、もうこんな時間。テレビを消す。必死に情報提供を呼びかける両親の声も消えた。晩御飯を作らなくちゃ、今日は生姜焼きなの。あぁ、キャベツの千切りしないと。面倒だわ、と立ち上がる。頭の中にはもう、先程の事件のことは欠片も残っていなかった。

どうであれ、遥か遠くで起きた無関係な一事件に他ならない。これが、ごく普通の午後五時の出来事である。




『目を奪う』


敵の馬蹄の嵐が、こちらを呑もうとさらに激しさを増す。八百対二万。無茶な戦力差だが、別働隊が背後から敵を突くために目を引く用の囮だといえば、ある程度は仕方のないことである。視界の端では絶えず味方の屍が積み重なっていくが、こちらはそれの倍、いや倍以上の勢いで敵を削いでいく。いい調子だ、と舌なめずりした。一閃。返り血が煩わしい。また転がった首に、敵の顔に焦りが浮かぶ。敵将らしき男が、俺を指さして叫んだ。

「あいつを殺せ!」

すべての敵兵の視線が、一斉に俺に向けられる。別働隊の存在など、微塵も考えてはいないのだろう。かかれ、の合図。幾重もの刃の津波が、一気に押し寄せてくる。上等。返り討ちにしてやる。

咆哮。即時、薙ぎ払った。前進。また、狩る。刃の冷艶が弧を描く。朱殷の飛沫が戦場に散る。何故、たった一人の男を殺せない。驚愕と戦慄を宿したすべての双眸が、まっすぐに俺だけを見つめていた。それでいい。それがいい。戦場のすべての目を奪え!

突如、敵後方から悲鳴が上がった。策がなったらしい。安堵に崩れそうになる膝を叱咤し、潰走を始める敵陣を睨みつける。俺を見上げる敵兵は揃って絶望の表情をしており、不安げに震えるさまは、母親を見失った赤子のようにも見えた。だが、それで容赦はしていられない。

さぁ、次はこちらから仕掛ける番だ。




『ハッピーエンドは訪れない』


あれは十二年前、私が高校生だった頃の話だ。両親が幼い頃に離婚したため父の顔を知らず、また働き詰めであまり帰ってこない母という、絶えずどことない孤独感に苛まれてきた私にも、人生で初めて彼氏ができた。そして、子供ができた。彼氏に打ち明けると、その場でフラレた。お金もないので中絶もできない。大して友達もいなかった私は、誰にも相談できないまま、次第に学校を休むようになった。母にこれがバレない家庭環境であることは救いであり、同時に途方もない絶望だった。

あれよあれよのうちに胎は膨れて、ある日の真夜中、ついに自宅で出産した。なんとかしなきゃ。赤ん坊が産声をあげるより早く、鼻と口をガムテープで覆って、頭部をラップでぐるぐる巻きにした。もがくのを輪ゴムとガムテープで封じる。赤ん坊は、すぐに大人しくなった。あとは、生ゴミの処理と同じだ。窒息して赤黒い顔の赤ん坊を黒いビニール袋に入れ、それを新聞紙でくるんで、またビニール袋に入れて封をした。母に見つかったら、どれだけ怒られるだろうか。このまま置いておく訳にも行かないので、紙袋に放り込んで最寄りの駅に向かった。赤ん坊をコインロッカーに押し込み、施錠した。鍵はトイレに流した。罪悪感、どころじゃなかった。むしろ、一応の始末ができたことによる安堵の方が大きかった。後日、発覚して大騒ぎになった。しかし、なんの因果か、私が犯人だとはバレないままに、事件は収束してしまった。どこかで裁きを望んでいたのかもしれない。それすらも叶わなかった。やっぱり、私は一人だった。

でもね、あなたはまだ幸せだったのよ。心の中で語りかける。もしあなたが今も生きていたら、毎日新しいお父さんに殴られながら過ごす羽目になったのよ。ちょうど、あなたの弟みたいにね。

目の前で、痣だらけの息子が震え伏していた。一通り暴力を浴びせて満足したらしい旦那が、慣れた手つきで煙草に火をつける。煙に息子が噎せた。それに気を悪くした旦那が、また息子の腹を蹴り上げる。ごめんなさい、ごめんなさいと泣き叫ぶ息子の声と旦那の罵声をどこか遠くに聞きながら、私はただただその光景を見つめていた。今蹴られているのが私じゃなくて良かった、とすら思う。私は、僅かながら主張し始めた胎を撫でた。二ヶ月、である。このことを言えば、旦那に殴られるだろうか。それとも、もう一人を産むことで、私はさらにその暴力から逃れられるのだろうか。

どちらにせよ、きっと、この子もまた。

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