第2部10章

第1話 祝いの宴

 大聖堂の外では、ミネルバとルーファスの婚約を祝う人々がお祭り気分に包まれていた。

 二人がバルコニーに姿を現すと、建物を揺るがすほどの歓喜の声が上がった。皇族というものが、国民からどれほど敬われているかを、ミネルバは改めて思い知った。


「私……これほど素晴らしいものを見たことがないわ。これからたくさん、グレイリングの人々と交流したい。この国をもっと知りたい」


「結婚式までに各地を回れる。私の婚約者として国民に紹介されながら、あちこちを旅して歩くんだ。皆、心から歓迎してくれるよ」


 ミネルバたちが手を振ると、人々は熱狂的な拍手喝采で応えてくれる。

 ミネルバは何年もグレイリングの文化や歴史を勉強してきた。属国アシュランの王妃として、宗主国グレイリングを訪問することを想定して。


(ルーファスが選んだ婚約者として、国民の視線を一身に浴びることになるなんて、思ってもいなかった。本当に、新しい私が誕生したんだわ)


 夜のとばりが下りるころ、翡翠殿で婚約披露パーティーが行われた。内輪だけの小さな集まりだ。社交界の人々がひとり残らず集まる大舞踏会は、日を改めて行われる予定になっている。

 ルーファスを慈しんできた翡翠殿の人々だって、婚約式を何としても見守りたかったに違いない。

 婚約式のクライマックスは、神聖な瞬間に立ち会えなかった使用人たちに埋め合わせをする──それが昔からの伝統なのだそうだ。伝統衣装に身を包んだルーファスとミネルバの姿に、翡翠殿の人たちは大喜びだ。


「いままで生きてきた中で最高の日でございますうぅ。ルーファス坊ちゃま、パリッシュは嬉しくて嬉しくて。長年願ってきたことがようやく、ようやく……」


「このメラニー、お坊ちゃまの幸せ以外に欲しいものはございませんでした。ずっと夢見てきたものが現実になって、涙が止まりませんわ」


 主賓であるミネルバとルーファスのために祝福の杯が掲げられ、翡翠殿はくつろいだ雰囲気に満ちていた。目の前でむせび泣いている執事のパリッシュと、侍女頭のメラニーの意気込みのおかげだ。

 料理はどれも凝っており、磨き抜かれた銀食器が輝いている。たくさんの楽器が運び込まれ、副執事のダンカンや庭師のトビー、古株の侍女のダナやゾーイが腕前を披露していた。とても親密で、穏やかな気持ちになれるパーティーだ。

 護衛たちもいたって楽しそうにしている。ロアンは満面の笑みで料理を頬張り、エヴァンも心底嬉しそうな顔をしていた。


「本当に素敵でしたわ。ルーファス殿下がミネルバのことを、我が身以上に大切に思っていることが、ひしひしと伝わってきて……」


 ソフィーが胸の前で指を組み、うっとりとした表情になる。マーカスが微笑みながら、大きくうなずいた。


「ああ。殿下がミネルバを守ろうとする姿に胸を打たれた。属国出身のミネルバのことを軽々しく考えず、心から大切にしてくださる。心底嬉しいよ。俺もあの二人みたいに、素晴らしいパートナーを見つけたい……なんて思ったりして」


「マーカス様……」


 マーカスからじっと見つめられていることに気づいて、ソフィーが顔を赤らめた。

 パーティーはどんどん素晴らしいものになっていく。室内は人々の笑い声で溢れ、ミネルバとルーファスに祝福の雨が降る。どこかで打ち上げられた花火が、夜空で弾ける音が聞こえた。


「見事だったぞミネルバ。お前はいつも最善を尽くすが……今日は最善以上だった」


 ミネルバの父、サイラスがしみじみと言った。


「あなたの幸せが嬉しいわ。ルーファス殿下と一緒なら、実り多き人生が過ごせる。もう何も心配いらないわね」


 涙もろい母、アグネスがハンカチで涙を拭っている。そんな両親を見ながら、グレンヴィルとエヴァンジェリンが微笑んだ。


「妹よ、お前は私たちの誇りだ」


 ジャスティンが晴れやかな笑みを浮かべる。


「でもミネルバ、これからもたゆまぬ努力を続けなくちゃね。僕たちはアシュランから応援しているから」


 コリンがさらりと言い、それからミネルバの手をぎゅっと握り締めた。


「ところでロアン、あっちでマーカス兄さんとソフィーさんがいい雰囲気になっているけど。いつものようにからかいに行かなくていいのかい?」


 コリンから悪戯っぽい目を向けられ、ロアンは手に持っていたパンをぱくりと頬張った。急いで咀嚼してから、彼は妙に大人っぽい表情を浮かべる。


「こう見えても僕、邪魔しちゃいけないタイミングってやつを、ちゃーんと心得てるんですよ。マーカスさんのこともソフィーさんのことも大好きなんで、ここでしゃしゃり出ると一生後悔しそうだし」


 ロアンのオッドアイが、少し離れた場所でもじもじしているマーカスとソフィーに向けられる。美しい赤と青の瞳が、喜びに溢れたきらめきを放った。


「翡翠殿の使用人たちは、すっかりミネルバの虜になったようだな。ルーファスの婚約者だからという理由だけじゃなさそうだ。このパーティーを見ていれば、ミネルバ自身が格別に好かれていることがわかる」


 トリスタンが室内をぐるりと見渡しながら言った。セラフィーナの側にいたレジナルドが走ってきて、ミネルバの腿に抱きつく。


「なあルーファス、テイラー夫人の目を盗むのは大変だろう? 私もセラフィーナも苦労したよ」


 トリスタンがにやりと笑う。ミネルバとルーファスは同時に首をひねった。セラフィーナがなぜかうっとりした表情になる。


「そうそう、懐かしいわあ。婚約者時代は、いかにして夫人の目をかいくぐるか、そればかりを考えていたものよ。トリスタンと物陰に隠れて、ひそやかな口づけや抱擁をしたわ」


 ルーファスの顔が急激に赤くなった。ミネルバの顔も同じことになっているだろう。

 室内の目という目が、一斉に二人の方を向く。さっきまで使用人たちと談笑していたテイラー夫人は眉根を寄せているが、他の面々は興味津々といった顔つきだ。


「い、いや、私たちはそんな、ど、道徳的によろしくないことは、その。ま、まだ婚約中の身ですし、そういったことは結婚してから……」


 ルーファスがしどろもどろになる。トリスタンは声をあげて笑った。


「最愛にして唯一の弟よ。お前はミネルバのおかげで、何もかもいい方に変わったが。奥手なところだけは全然変わっていないな。婚約式も無事終わったのだから、少しくらい羽目を外しても許されるんだぞ?」


「いや兄上、それは……」


 ルーファスは反論しかけたが、思い直したように口をつぐみ、真っ赤な顔をミネルバに向けてきた。

 ミネルバも恥ずかしさで胸がいっぱいになって、彼の目をただ見返すことしかできない。ロアンが小さく息を吐いた。


「ルーファス殿下もミネルバ様も、純情を芸術の域まで高めちゃってますからねえ……。うん、ここはひとつ、僕が盛大に発破をかけてやらないと」


 ロアンが胸に手を当てて、声を潜めて不穏なことを言う。ミネルバとルーファスを見つめる人々の顔がほころんでいた。

 それからも幸せな満足感に溢れた時間が続き、宴もたけなわになったころ、翡翠殿にギルガレン辺境伯が到着した。


「おおソフィー、お前が宮殿で安全に過ごせていることで、どれだけ救われたことか……」


 辺境伯は臣下としての丁寧なあいさつを済ませ、次に愛情のこもった目でソフィーを見た。ソフィーの顔に優しい笑みが浮かぶ。


「ミネルバが側にいてくれなかったら、とても乗り越えられなかったわ。そしてマーカス様も……いつだって側にいて慰め、励ましてくださったの」


 辺境伯は「ほう」とつぶやき、視線を巡らせてマーカスを見た。そして直立不動になっているマーカスに、顔をくしゃくしゃにして「ありがとうございます」と礼を言った。

 ルーファスとトリスタンが視線を交わす。ルーファスは手にしていたグラスをテーブルに置き、ほんのつかの間目をつむった。


「ようやく動き出すときがきた。ロバートに正義がくだされるまで、心が休まらないからな」


 目を開けたルーファスが、威厳に満ちた声で言う。ミネルバは高揚感が全身を駆け巡るのを感じた。


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ぎっくり腰に学級閉鎖が重なり、かなりヘビーな日々を過ごしております。マイペースに更新してまいりますので、第二章あと少しお付き合いください。

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