第6話 神聖なる誓い

 神官長が祈りを唱える。ミネルバは祭壇前に敷かれた絨毯の左端に、ルーファスは右端に、向かい合う形でひざまずいた。

 属国の王侯がひざまずくのは、神と、宗主国グレイリングの皇族だけ。そして宗主国グレイリングの皇族がひざまずくのは、神の前でだけだ。

 歴代の皇帝は神の域にあるものとみなされている。だから皇族が神に祈る行為は、先祖を敬うのと同じことなのだ。


 絨毯の中央に設えられた台座に、大きな杯が二つと、立派なガラスの壺がひとつ置かれている。ミネルバは長くて広い袖をさばきながら、深くお辞儀をした。ゆっくり頭を上げ、膝歩きで三歩進んで、さらに深く頭を下げる。

 膝立ちのまま背筋を伸ばし、ミネルバは左側の杯を手に取った。ルーファスが右側の杯を持ち上げる。二人同時に前を向いて、しっかりと見つめ合った。


 ミネルバの杯の中には、故郷であるアシュラン王国バートネット公爵領の砂が入っている。ルーファスの杯の中にあるのは、グレイリング帝国宮殿内の翡翠殿で採取された砂だ。

 砂合わせは、二つの砂をひとつに合わせる単純な儀式。二人が婚約することを神と祖先に報告するための、大切な儀式。

 グレイリングの皇族は、婚約する際に必ずこの儀式を行う。家族や大勢の貴族の前で神聖な誓いをするためか、不名誉な理由での婚約破棄など、ただの一度も行われたことがないらしい。


 ルーファスが優雅な動きで、壺の上で杯を傾ける。杯の中の五分の一ほどの砂を注ぎ入れたところで、彼は杯を水平に戻した。

 次にミネルバが、壺の中に砂を落とした。杯の持ち方も頭の傾け方も、テイラー夫人の名に恥じないような動きができたと思う。

 ミネルバとルーファスは、それから数回同じ動きを繰り返した。ミネルバの砂は白っぽく、ルーファスの砂は黒っぽい。色合いの異なる二つの砂が層をなしていく。

  ミネルバは砂を注ぎながら、婚約式直前のルーファスの言葉を思い出した。


『私ひとりきりの人生と、君ひとりきりの人生が終わる。そして、私たち二人の人生が始まるんだ』


 混じりあう砂が周囲の人々に、ミネルバとルーファスの繋がりが完成されたことを知らしめる。

 ついに杯の中の砂がすべて壺の中に注がれた。

 この砂を分けることは不可能に近い。二人の婚約破談を願う者には、それ相応の覚悟が必要だ。

 ミネルバとルーファスは動きを合わせて、同時に杯を台座に戻した。膝立ちのまま体の向きを変え、神官長に向かってお辞儀をする。

 それからまた向かい合い、ガラスの壺に向かって頭を下げる。膝で三歩後ろに下がり、もう一度お辞儀をし、流れるような動作で立ち上がった。会衆席にいる貴族たちが、ほうっと息を漏らす音が聞こえた。

 二人の女性神官が進み出て、ガラスの壺を持ち上げる。彼女たちは恭しい身振りで、神官長の祭壇の上に壺を置いた。


「神の定めた道理により、汝らの婚約が成立したことを宣言する」


 神官長が右手の指で『聖砂』をつまんだ。聖砂というのは、聖職者が祈りを捧げた特別な砂で、信者に祝福を与えるために用いられる。

 ガラスの壺の中に、聖砂が落とされた。

 皇族は結婚式までに、世界に五つある大聖堂で祝福を受けなければならない。そのうちのひとつが、いま無事に終わったことになる。

 残りの大聖堂は三つの同盟国と、教皇の居所である宗教国家にあるから──古くからの伝統にのっとった挙式の準備には、やはり相当な時間がかかるだろう。

 それでもミネルバは、少しだけ肩の荷を下ろしたような気分だった。やはり緊張していたのだ。


 心が温かいのは、自分がルーファスの婚約者だと名実ともに認められたからだ。

 フィルバートから取るに足らない者のように扱われ、ずっと孤独を感じていた。家族たちは、いつか必ずふさわしい男性が現れると励ましてくれたけれど、心の底から信じることはできなくて。

 しかしいまのミネルバは、多くのものを持っている。夢や希望、確かな絆、ずっと待ちわびていた真実の愛。


 いるべき場所にいる、という気がした。ルーファスの隣こそが、ミネルバのいるべき場所なのだ。

 ルーファスが小さく深呼吸をして、会衆に向かって一歩前に踏み出す。堂々とそびえるように立つ彼の姿は、力強くて威厳があった。

 ミネルバも前に進み出て、ルーファスの隣に寄り添うように立つ。


「この善き日に、婚約の誓いはなされた」


 朗々としたルーファスの声が、大聖堂の隅々まで響く。


「ミネルバ・バートネットは我が妃に相応しい女性、我が運命の女性である。知的で優しく、強く勇敢で、困っている人を見たら助けずにはいられない。彼女は賢い皇弟妃となり、申し分のない助言者として私を助けてくれるだろう」


 深く豊かな声が、貴族たちの耳を打つ。


「肩にかかる黒い帯は、我ら二人の決意の表れ。私の未来にいるのは彼女のみ。我が愛を受け取るのは彼女が初めてであり、そして唯一の相手となるのだ」


 会衆席はしんと静まり返っている。ルーファスはさらに続けた。


「グレイリング帝国とその勢力圏に、何百万、何千万という人々がいる。我が兄トリスタンの尽力のおかげで、彼らは安定した平和な日々を過ごしている。我らの役目は、この国の宝である兄一家を支えること。皇族としての私たちは、生涯にわたって彼らのために尽くす所存だ」


 ミネルバは会衆席をちらりと見やった。強張った顔をしている者、賞賛の眼差しを向けてくる者、反応は様々だ。 


「貴族も皇族も、自らの務めを果たさなければならないという点では同じ。人々が豊かで健康に暮らすことのできるよう、平和と繁栄を維持しなければならない。グレイリングの安泰と、さらなる発展のため、共に努力しようではないか。そして経済的にも政治的にも安定した国を、次世代へと手渡そう。君たちと揺るぎない協力関係を築くことが、私とミネルバの一番の望みである」


 ルーファスの口上が終わる。次はミネルバが覚悟を示す番だ。


「私はルーファス・ヴァレンタイン・グレイリング殿下の婚約者として、未来の妻として、どのような状況でも彼を支えてまいります。この栄誉ある地位の重要性と責任をわきまえ、生涯かけてグレイリングのために尽くします」


 貴族たちが一斉にミネルバを見つめる。前列にいるカサンドラや他の公爵令嬢の瞳から、意地の悪い光が放たれるのを感じた。


「この世に生を受けた瞬間から、私の体にはアシュラン王国の血が流れ、それは永遠に変わることがありません。皆様もご存じの通り、故国では不名誉な経験もしました」


 人々の間でざわめきが起こった。この場でミネルバがその事柄に触れるとは思っていなかったのだろう。カサンドラが怪訝そうな顔でミネルバを見上げていた。

 グレイリングの社交界でも、婚約破棄劇は日常的に起こっている。ソフィーとロバートのように。

 女性の評判は、男性に比べて簡単に傷がつく。辛い思いをしている令嬢がきっといるだろう。ミネルバはそういう女性を助けたいと思っているが、そのためには影響力のある女性たちが一致団結しなければならない。


「ですが辛い経験は、私を強くしてくれました。私はこれから先、どんなことからも逃げないでしょう」


 公爵令嬢たちが、居心地悪げに身じろぎしたのが見えた。


「私は、自らが信頼されてしかるべき人間だと、皆様に証明しなければなりません。未来には希望もあれば、不安もありますが、全身全霊を傾けるつもりです」


 後列の若い淑女のみならず、年配の女性たちも温かく寛大な眼差しを向けてくる。ミネルバは言葉を続けた。


「私には学ぶべきことが山ほどあります。この地に根を下ろし、いつの日かグレイリングの誇りとなれるように、命ある限り努力を続けるつもりです」


 ミネルバの口上が終わり、ルーファスと呼吸を合わせてお辞儀をした。会衆への感謝の気持ちだ。


「ご参列の皆様で、この婚約の保証人となってもよいという方はご起立ください。そして、温かな拍手を」


 神官長が威厳のある声で呼びかけた。参列者たちが次々に立ち上がる。そしてミネルバとルーファスは大きな拍手に包まれた。

 二週間の旅で出会った貴族たち、ギルガレン辺境伯夫妻、テイラー夫人の教え子……それ以外の多くの貴族からも、拍手と笑顔が贈られている。

 前列の公爵家の人々が驚いたように振り返り、ある者は慌てて、ある者はしぶしぶといった様子で立ち上がった。

 ミネルバとルーファスは笑みを交わした。言葉がなくても通じ合えることに、ミネルバは溢れんばかりの幸せを感じた。

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