第2話 大切な人

 翌日からミネルバとルーファスは清めの期間に入り、神官たちと過ごす初日は和やかに過ぎた。

 ルーファスは神官長による聖典の講釈に耳を傾け、ミネルバは女性神官から神学の講義を受けた。

 神に誓約を捧げた神官たちは、総じて穏やかだ。いつも一緒にいたソフィーも、厳格な師であるテイラー夫人も側にいないことで孤独感に襲われたものの、実り多い一日を過ごすことができた。


「おかえりミネルバ。いやあ、この宮殿の図書館は凄いね。数と質の高さに圧倒されて、どれを選べばいいかわからないくらいだよ!」


 夕方になる前に自室に戻ると、コリンが顔を輝かせた。彼は本や巻物をテーブルに広げ、白紙にペンを走らせている。どうやら書写をしているらしい。


「母さんとソフィーさんは中庭、ジャスティン兄さんとマーカス兄さんは訓練場に行ったよ。グレイリングの騎士たちに、剣も拳も大歓迎されてるみたいだね。父さんはグレンヴィル様とトリスタン様、あと宰相様の四人でカードゲームを楽しんでる」


 そう言いながら、コリンは次の本に手を伸ばした。


「トリスタン様のご厚意で、明日は鍵付きの書庫の中に入れて貰えることになったんだ。閲覧が許されるのは皇族のみっていう、貴重な宝が満載の空間だよ。ミネルバの兄ってことで、権利を授けて頂いたんだ」


 慎重にペンを動かしながらコリンが微笑する。学者肌の彼は、本の中の知識を吸収することが何よりも楽しいのだ。


「じゃあコリン兄様は、明日はきっと書庫から出てこないわね」


「そうだね。持ち出しも写字も禁止の本ばかりだし、読める間に読んでしまわないと」


「たまには水分を取ってね。できたら食事も忘れないで」


 ミネルバの言葉に、コリンは「ああ」と答えた。腰を据えて読書に励んでいるときの彼は、とてつもない集中力を発揮する。夕闇が迫り、書庫に鍵がかかる直前まで本から離れないに違いない。


「おかえりなさいミネルバ!」


 ソフィーの明るい声がした。中庭からガラス張りのサンルームを抜けて、母のアグネスとソフィーが居間に入ってきたのだ。


「ソフィーさんは本当に素晴らしいわ。こんなに若いのに、園芸の要領をすべて心得ているんだもの」


「アグネス様こそ並々ならぬ知識をお持ちで、感服いたしました。本物の緑の手の持ち主でいらっしゃいますね」


 微笑みを交わしている二人を見るに、早速特別な関係を築いたらしい。


「ねえミネルバ、侍女頭のメラニーさんが大喜びしていたんだけど。帝都じゅうがあなたの噂で持ち切りなんですって!」


 ソフィーが両手の指を組み合わせた。美しい顔が興奮に輝いている。


「あの装いが効果抜群だったのよ! つまりグレイリングのファッション界に革命をもたらしたのっ!」


 ミネルバは当惑しながら「そうなの?」とつぶやいた。ソフィーが勢いよくうなずく。


「そうなのよ! パレードが終わったあと、若い娘たちが『ミネルバ様と同じようなドレスが欲しい』って、こぞって衣装店に駆け込んだんですって。あなたが新たな流行を生み出したのよ。それで今日は、宮殿にデザイナーがたくさん来たの。ミネルバの専属デザイナーになりたいって売り込みに来たのよ」


 ミネルバは息をのんだ。予想以上に自分の人気が上昇したらしい。


「デザイナーからの申し出に対応しているのは、もしかしてテイラー夫人?」


「ええ、もちろん。ドレスだけじゃなくて、靴や髪飾り、宝石のデザイナーも殺到しているから、面談は一日で終わりそうにないわ」


 テイラー夫人が威厳のある声で、デザイナーたちを委縮させている様子がありありと思い浮かぶ。社交界における言わずもがなの決まりをすべて熟知している彼女なら、ミネルバに最適なデザイナーを選び出すことだろう。


「それとね、私がスカーフをつけていたでしょう? グレイリングの女性にとって欠かせないアイテムになったらしくて、どこのお店でも完売なんですって」


 ソフィーが恥ずかしそうに微笑した。「ふむ」とコリンが鼻を鳴らした。


「うぬぼれちゃ駄目だよミネルバ。グレイリングの国民からの、お前に対する評価が上がったようだけれど。半分以上はソフィーさんのおかげだからね。辺境伯のご令嬢という高い地位にある女性が付き従ってくれている、この効果は本当に大きい」


「わかってるわコリン兄様。残りの半分は、あの素晴らしいパレードのおかげ。私の功績なんてほとんどないわ」


 ミネルバが気を引き締めたとき、ジャスティンとマーカスが部屋に戻ってきた。後ろからくっついてきたのはロアンだ。訓練場がよほど楽しかったのか、三人とも満面の笑みを浮かべている。


「これほどの大国となると、一流の猛者揃いだな。いやあいい汗かいた!」


「おかえりなさい兄様たち。とっても楽しかったみたいね」


 汗を滴らせるマーカスに、ミネルバはハンカチを手渡した。


「こちらの騎士たちは、剣を扱う腕も並外れている。誰ひとりとしてあっさり勝たせてくれない。接戦なんて久しぶりだった」


 ジャスティンが涼しい顔で言った。最高の練習相手がたくさんいたようだが、どうやら全勝したらしい。

 ジャスティンの顔を見ながら、マーカスが苦笑を浮かべる。


「ジャスティン兄さんが片っ端からやっつけちまうもんだから、あっちの騎士さんたちが熱くなっちゃってなあ。明日は騎士団長が出てくるってよ。勝っても負けても凄まじい試合になりそうだ」


「まあ。ということは明日の日中、ソフィーさんがひとりになるわね。私はエヴァンジェリン様とお約束があるし、お父様はグレンヴィル様と狩猟に出かけるし……」


 アグネスが困ったような表情を浮かべて言った。


「ご心配には及びませんわ、やるべきことはたくさんあるんです。今日もミネルバ宛に、たくさんの招待状や贈り物が届きましたし。その整理をしていれば、時間なんてあっという間に過ぎますわ」


 ソフィーの視線が机の上に流れた。積み上げられた招待状の数を見れば、彼女が暇を持て余すことはなさそうだと思える。


「私、お茶の時間にはここに戻ってくるわ。今日は初日だったからずっと神殿にいたけれど、休憩時間は翡翠殿に戻っても構わないそうだし」


「そんな、いいわよわざわざ」


 ソフィーが驚いた顔でミネルバを見つめた。


「そうしたいの、そうさせて。今日はソフィーが側にいなくて寂しかったし」


 どうしてかはわからないが、何としても戻ってこなければならないと思った。

 ミネルバは自分が何をすべきか、そして何をすべきではないかを、瞬時に決められるタイプだ。そして一度決めたら、よほどのことがない限り曲げない。


「わかったわ。じゃあ、美味しいお茶菓子を用意して待っているわね」


 ソフィーがうなずいた。彼女が内心喜んでいるのは、たとえ口に出さずとも顔を見ればわかる。


「今日はこれから晩餐まで、テイラー夫人の指導を受けるんでしょう? そろそろ着替えをしないと」


 ミネルバとソフィーを見ながら、アグネスがゆったりと微笑んだ。


「忙しいわねえミネルバ。でもあなたは多忙なときほど、最高の力を発揮するのよね」


 ソフィーが「本当ですね」と答えた。そして彼女はミネルバの背中に軽く手を添え、衣装室へといざなった。

 侍女の手も借りて着替えながら、ミネルバは神殿での出来事をつぶさに語った。ソフィーは熱心に耳を傾けてくれた。

 頼りになるし、真面目で信頼できる女官。そして無二の親友であるソフィーと一緒にいる時間は、本当に心地いい。

 出会ってからまだ一か月も過ぎていないが、彼女のためにできないことはなにもないと思えるほど、ミネルバはソフィーのことが大切になっていた。

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