第3話 緊急事態

 二日目の神学の講義では、女性神官の詳細な指導が長引いた。ようやく休憩時間となり、ミネルバは慌てて翡翠殿へと戻る馬車に乗った。


(ソフィーと約束していた時間に、大幅に遅れてしまったわ……)


 清めの期間中は神官たちと家族、そして限られた使用人としか接触してはならないという決まりがあるので、馬車の窓には布で目隠しがされている。ミネルバに付き合って翡翠殿に戻ることにしたルーファスとお喋りを楽しみながらも、気持ちが急くのを止められない。


「ただいまソフィー、遅くなってごめんね!」


 ミネルバは執務室に視線を巡らせた。しかしソフィーの姿はどこにもない。


「お嬢様、ソフィー様は中央殿へ行かれました。お客様がソフィー様に会いにいらしたそうです」


 アシュランから連れてきた侍女のひとりが言った。中央殿というのは、宮殿の中央にある半球型の大きな塔のことだ。


「お客様?」


 ミネルバは眉根を寄せた。

 礼儀作法の定めるところでは、皇族や貴族の住居を訪問する際は前日までに予告することになっている。しかしソフィーは昨日、来客の予定があるとは言っていなかった。


「どなた? もちろん男性ではないわよね?」


 ギルガレン辺境伯夫妻はまだ領地にいる。ディアラム一族と揉めているというのは周知の事実で、その上ロバートは謹慎中だ。となれば、ソフィーの親族かよほど親しい友人が緊急の面談を求めてきたとしか考えられない。


「どこかのご令嬢だとおっしゃっていましたが……」


「執事のパリッシュさんが持ってきた面会カードを見て、慌てて出ていかれたので……」


 侍女たちが顔を見合わせる。

 ミネルバは執務机の横を回って、ソフィーが愛用している革製のバインダーと正面から向き合った。それは開かれたままで、挟まれた紙に書きかけの文字が滲んでいる。愛用のペンが机の下に転がっていた。

 椅子をどかして屈み込むと、クリーム色の面会カードも落ちていることに気が付いた。

 訪問客は誰なのだろう。そう思いながら、裏返しになったカードに手を伸ばす。


「なんということ……」


 ミネルバは鋭く息を吸い込んだ。「ひ」という悲鳴のような音が漏れた。

 ルーファスですら聞いたことのない類の声だったのだろう、やはりしゃがみ込んだ彼が「ミネルバ?」と困惑した顔を向けてくる。


(たしかにご令嬢だわ。皇族に次ぐ身分の、令嬢の中の令嬢……予期せぬ客、公爵令嬢カサンドラ……)


 心臓が大きな音を立てていた。過去に経験したことのない怒りが込み上げてくる。それはこの状況にまったく無力である自分への怒りだった。


(甘かった。こんな方法を取るなんて思いもしなかった。ソフィーがひとりきりのところを捕まえるだなんて……)


 ソフィーとカサンドラが、互いに親しい友人とみなしていないことはミネルバも知っている。


(いきなりカサンドラが来て、ソフィーは衝撃を受けたに違いないわ。でも私は神殿にいたから、困った状況に陥っても伝えられなかった……)


 ミネルバは己のうかつさを呪った。

 自分を陥れるために、カサンドラがあれこれ画策しているという噂を、シーリアから聞かされていたのに。

 ミネルバをお茶会に招待するという当初の計画を捨て、作戦を整え直しているのだろうとは思っていた。でもまさか、ソフィーを窮地に追いやろうとするとは考えもしなかった。


(私の馬鹿、どうして気づかなかったの。清めの期間中なら、私からソフィーを引き離すのに、カサンドラは自分の手を汚す必要がない。だって私は、神殿と翡翠殿以外には行けないのだから!)


 アシュランで公爵令嬢として生きてきた経験から、いきなり中央殿に現れたカサンドラに対して、使用人たちがどんな反応を示したかは予測がつく。

 名門メイザー公爵家の令嬢に恥をかかせるようなことはできないと、誰かが中央殿から翡翠殿まで飛んできたのだろう。

 ソフィーは当惑して途方に暮れただろうが、辺境伯令嬢という立場では、公爵令嬢である『友人』の訪問を無下にはできない。顔も見ずに追い返せば、言語道断なふるまいだと言われかねない。

 面会カードには、カサンドラ以外の名前も何人か書かれていた。すべて公爵家の令嬢たちだ。

 彼女たちのミネルバへの嫌悪感を考えると、ソフィーも嫌がらせを受けることは覚悟していただろう。

 女官としてミネルバに恥をかかせてなるものかという思いがあるにしても、ソフィーはあまりに無防備で、孤立無援だ。


(どうしよう、何か対処する方法を考えないと。あの善良で優しいソフィーの、傷つきやすい心が踏みにじられたりしたら──)


 いますぐ中央殿まで走っていきたい衝動と闘いながら考える。焦りと不安に呑まれてしまったミネルバの肩を、ルーファスが強く掴んだ。


「ミネルバ、ひとりで悩まないでくれ。私にも婚約者としての役目を果たさせてほしい」


「ルーファス……」


 ミネルバが顔をあげると、ルーファスが真っすぐこちらを見ていた。

 彼だけではなく、深い皺の刻まれたテイラー夫人の顔も見えた。いつの間に部屋に入ってきたのか、彼女は穏やかな口調で囁いた。


「ふむ、なかなか賢いお客様ですね。皇族扱いで守られているミネルバ様と違って、ソフィーさんなら容易に傷つけることができますから」


 テイラー夫人はミネルバの手からカードを抜き取ると、目の表情をやわらげた。


「ソフィーさんにとっては人畜無害とは言えないお客様ですが、まあ大丈夫でしょう。たとえ嫌味を言われたとしても、命まで奪われるわけではありませんし」


 考えをまとめようとするかのように、テイラー夫人は閉じた扇の先を唇に押し当てた。


「公爵家のご令嬢たちは、ミネルバ様が人気を集めているのが気に食わないのでしょう。おとぎ話のような恋物語の主人公として国民から愛されて、侯爵家以下の令嬢たちにも支持者が増えている。おまけに皇帝陛下からも気に入られ……」


 テイラー夫人の声を聞きながら、ミネルバはなんとか落ち着きを取り戻そうとした。


「中心人物である、カサンドラ嬢の行動の真意はなんでしょうね。あなたの女官を物笑いの種にするためだけに、わざわざ来たとは思えませんが」


 怒りっぽいけれど面倒見のいい老女にじっと見つめられ、ミネルバは得体のしれない胸騒ぎを覚えた。


「私がカサンドラ嬢の立場なら……ミネルバ様と張り合うためにソフィーさんを奪おうとしますね。出来るかどうかは別ですが、他にどんな理由があって清めの期間中を狙ったというのか」


 ミネルバの背中を冷たい汗が流れ落ちた。それは大いにありうる話だ。ソフィーを離反させることができれば、ミネルバに大きなダメージを与えることができる。

 いくら宮殿が水準の高いセキュリティを維持しているとはいえ、ソフィーをひとりにするべきではなかったのだ。カサンドラがたくらむ意地の悪い策略に、彼女がひとりで立ち向かっていると思うと、ぞっとした。


「私……カサンドラが厄介ごとを起こすかもしれないと、わかっていたのに……」


 ミネルバのつぶやきにルーファスが当惑した面持ちになり、眉根を寄せた。彼は思いを鎮めるように深く息を吸い込んだ。


「私たちの間に隠し事があったのは悲しいが……ミネルバ、いまは考えてもわからないことで頭を悩ませるのはやめよう。翡翠殿から出なくても、ソフィーの様子を知ることができるだろう? だって君には『特殊能力』があるのだから」


 ミネルバははっと息をのんだ。たくましく強いルーファスの手が、ミネルバの震える指先を握ってくれた。

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