第3話 出発前の一幕
マーカスのための客間に行き、ソフィーが女官になったことを伝えると、彼は何も言わずに長い息を吐いた。ロアンが小首をかしげる。
「興奮して小躍りするかと思ったのに。意外な反応ですね」
ロアンはミネルバのために椅子を引き、自分はその向かい側に腰を下ろした。そして朝食用のパンがたっぷり盛られた皿に手を伸ばす。
彼のあっけらかんとした性格がよくわかる行動だ。マーカスとは『相棒』と呼び合う仲だから、一切遠慮はしないことに決めているらしい。
「マーカスさんってば、重症の『恋愛したい病』にかかってますからねえ。ソフィーさんが同行するって知ったら、目がきらきら状態になると思ったのに」
「多分……心臓が早鐘を打ちすぎて、息が苦しいんじゃないかしら」
ミネルバが答えると、ロアンは「なるほど」とパンにかぶりついた。彼はいつでも腹ペコだ。
ロアンがパンを二つ食べ終えるころ、マーカスがようやく口を開いた。
「……人生って予測不可能なものだなあ」
そう言って、マーカスは勢いよく姿見に飛びついた。鏡を覗き込んで、銀髪に手をやって何度も撫でつけている。
ロアンが突っ込みを入れる仕草をした。
「いや直毛で硬い髪質でめちゃくちゃ短髪ですし、撫でつける意味あります?」
しかしマーカスは鏡から目を離さず、自分の顔をあらゆる角度から吟味し始めた。
「いやどの角度から見てもいかついですし」
ロアンがまた突っ込む。ミネルバはくすくす笑った。この二人は本当に仲がいい。
マーカスは数度まばたきをして、存在を忘れていたかのようにロアンを見た。
「なあロアン、この服はデートするには地味すぎるよな。貴公子らしく、ひらひらがいっぱいついた服に着替えた方がいいよな?」
「いやデートじゃないですし、そもそもフリルが絶望的に似合いませんし。頭のネジが緩んじゃうと、自分の発言のおかしさがわかんなくなるんだなー……」
マーカスのすみれ色の瞳が炎のようにメラメラと燃えている。生気に溢れまくる兄の顔を見ながら、ミネルバは椅子の上で背筋を伸ばした。
「あのね、マーカス兄さま。ソフィーは男性に傷つけられたばかりだから、あまり極端な行動に出てほしくないの……」
うきうきしながらトランクを漁っているマーカスに、水を差すような言葉を投げる。マーカスの顔がショックに凍りつくかと思ったが、そうはならなかった。
「わかってるに決まってんだろ。ソフィーさんはミネルバと同じで、真面目一辺倒な性格だ。すぐに他の男と恋愛ができるわけねえからなあ」
マーカスは眉を上げて言った。
「今回のことは彼女にとって試練だった。ロバートってのはとんだ馬鹿野郎だ、男の風上にも置けない奴だ。話を聞く限り、ソフィーさんを簡単に手放すつもりもないんだろう。奴は絶対に問題を起こす。そうなったときに彼女を守り、助ける存在が必要だろ」
「マーカス兄さま……」
「ミネルバだってフィルバートから婚約破棄された直後は、男に近づかれるとそわそわして、明らかに落ち着きを失ってたしな。ソフィーさんにとって俺は他人だから、心を許してもらうには手探りで行動するしかねえ。これはそのためのお洒落だ」
「やだ、マーカスさんってば正真正銘のいい男……って言いたいけど、さっき『デート』って言ってませんでした? 絶対下心ありますよね?」
「うるせえロアン、お前はどっか行ってろ。下心じゃない、保護本能を掻き立てられてるだけだ。人として当然の親切だっ!」
マーカスはロアンを追い払う仕草をした。
「ソフィーさんの荷物運びでもしてこい。ミネルバも心配すんな、傷心の令嬢相手にふさわしい態度は心得てっから」
「そ、そう……じゃあ私も、ソフィーの荷造りを手伝ってくるわ」
ミネルバは立ち上がった。肩をすくめるロアンを促し、二人一緒にソフィーの部屋へと向かう。浄化の必要性を探るために城の中を探索していただけあって、ロアンの足取りはスムーズだった。
ソフィーの部屋へと続く廊下は賑わっていた。侍女や従僕が忙しく行き交っている。扉の前でロアンを待たせ、ミネルバは室内を覗いた。
「ソフィー、荷造りは順調?」
「ミネルバ! ええ、とっても順調よ」
ソフィーは顔を上げてにっこり笑った。どうやら持っていく靴や小物を厳選する作業をしていたらしい。室内では侍女たちがトランクに荷物を詰めている。
「私も手伝うわ。何でも言って」
「そんなことしてもらうわけには……本当にいいの? じゃあ、本を選ぶのを手伝ってくれるかしら。あれもこれも持っていきたいけれど、そういうわけにもいかないし」
ソフィーに案内されて、部屋の奥にある書庫に入った。
「宮殿にはそれは立派な図書館があるのよ。一度じっくり見学してみたいなって思っていたの。だから持っていく本は少しでいいのよ、旅行中の気分転換に読むものだけで。ミネルバも好きなものを選んで」
「嬉しいわ、寝つきの悪い夜に本があると助かるもの。私が持ってきた本は、もう何度も読んだものだし」
書庫は清潔だが、古い本特有の黴と埃のにおいがした。背表紙を眺めると、ミネルバの興味を引く本が何冊もある。しばらくの間、ソフィーと背中合わせで本を厳選した。
「ミーアは本を読むのが大嫌いだったから……。小さな文字を眺めていると蕁麻疹が出るんですって。だからこの書庫と、私が主催している読書会だけは奪われなかったのよね……」
ソフィーが小さくつぶやいた。
「本に向かって悪態をついている姿が目に見えるようだわ。ミーアはやっぱり、私の知ってるセリカに似てる」
昨日のうちにポールター修道院に送られたミーアは、いまごろどうしているだろう。ミネルバは五冊の本を抱えて、ソフィーのほうを振り返った。
「ねえソフィー。社交界にいると、女の戦いがあるわよね。私は知っておくべきことがいくつもあると思うの。私をわざと困らせたり、罠にかけようとする人が……きっといるのよね」
ソフィーも本を手にして振り向く。彼女は「そうね」と答えた。
「私はあなたの女官。グレイリングではミネルバに最も近い女で、最も親しい友人よ。だから役に立ちそうなことは何でも教えるわ」
思案顔で下唇を噛んでから、ソフィーは言葉を続けた。
「公爵家の令嬢たちは、みんな頭から湯気を立てんばかりに怒ってる。いずれも洗練された美女揃いよ。彼女たちはあなたと仲良くなるより、あざ笑うほうを選ぶと思うわ。その中でも特に注意が必要なのは……グレイリング社交界の花、カサンドラ・メイザー公爵令嬢よ」
「カサンドラ……」
ミネルバはぐっと背筋を伸ばして、己のライバルとなる令嬢の名前を舌の上で転がした。
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