第2話 女官任命2

「ひどい二日酔いみたいね、大丈夫?」


「大丈夫よ、すぐによくなるわ」


 ソフィーは小声で応じながらも、頭の両脇を手で押さえたままだ。目は真っ赤に充血しているし、顔は青白く、黒い隈までできている。


「ミネルバがここにいられるのも、あとわずか。何としても回復してみせるわ。グレイリングの社交界は、アシュランとは勝手が違うもの。あなたが早く慣れるように手助けをしなくちゃ」


 ソフィーはあとに引かない強さを感じさせる声で言った。どうやら並大抵ではない意気込みがあるようだ。


「私、読書会を主宰しているって言ったでしょう? 参加者に公爵家のご令嬢はいないけれど、侯爵以下はかなりの人数よ。つまり社交界に情報網を持っているの。圧倒的多数は侯爵以下の令嬢だから、親しくなれる人が多いほど力を発揮できる。ミネルバを助けるためなら、私はあらゆる努力を惜しまない。誰が信頼できる相手か教え……う、うぅ……」


 吐き気を覚えたのか、ソフィーは慌てて口を手で覆った。ミネルバは慌てて彼女の背中をさすった。

 ルーファスが寄ってきて、ミネルバの肩を軽く叩く。


「ソフィーは社交界でも一目置かれる存在だからな。先に進みたいという気持ちが強いようだし、私たちと一緒に出発するのが一番いいだろう」


「そうは言っても、こんなに具合が悪そうだし……」


「ジェムに薬を用意させている。エヴァンの『魔女の薬草』を使ったもので、かなり苦いがてきめんに効く」


 たしかに、ソフィーには薬の助けが必要だ。彼女を窮地から救うため、有能な部下はすでに動いていたらしい。ほどなくして、ロアンが薬の入ったグラスを運んできた。


「お待たせしましたー。医師ジェムさんと薬剤師エヴァンさんによる、普通とはひと味違ったお薬でーす」


 ロアンは満面の笑みを浮かべた。グラスからは草の香りが漂っている。首を振りながら後ずさりしたくなるような、おどろおどろしい色合いだ。

 ミネルバとソフィーは、黙ってグラスを見つめた。


「見た目はあれだし、多少苦いが即効性がある。まさに良薬は口に苦しだな。もう少し飲みやすい薬もあるが、そちらは効き目が出るまで時間がかかるんだ」


 ミネルバたちの動揺を見て取ったのか、ルーファスが必死のフォローを入れる。

 どう見ても喉を優しく通り過ぎる薬ではないから、ソフィーが飲めなくても責めることはできない。しかしソフィーは震える手でグラスを掴んだ。ミネルバの背中を冷や汗が伝う。


「これを飲めばミネルバと一緒に行ける。そう、いまが勇気を出すときよ。女官としての生活を始めて、新しい人生を力強く歩んでいくのよ。飲むわ……飲むわよ」


 ソフィーはグラスを掲げて乾杯の仕草をした。そして勢いよく飲んだ。空のグラスをロアンに戻すときはしぶい表情だったが、数分後にはさっぱりした顔つきになった。


「頭と胃がすっきりしてきたわ。これならミネルバと一緒に行ける!」


「ソフィー、よかった!」


 ミネルバは心底ほっとし、同時に嬉しくなった。

 ソフィーの体を抱きしめていたら、バタバタと廊下を走ってくる音が聞こえた。近づいてくるのはギルガレン辺境伯だ。目にいっぱい涙を浮かべている。


「ソフィーが素晴らしい栄誉に恵まれたとか。どうか御礼の言葉を言わせてください。本当に……本当にありがとうございます」


 辺境伯の顔には、疲労だけではなく挫折感や失意といったものが刻まれている。彼にとっても、昨日は長く苦しい一日だったのだ。


「私の怠慢が原因で、ソフィーに辛い思いをさせるはめになりました。若い妻を迎えて、浮かれるあまり判断力が鈍っていたのかもしれません。自分のことで頭がいっぱいで、娘たちにまで気が回らなかった。熱心に事前対策を講じたつもりが、使用人の裏切りで秘密の通路を使われる有様。すべては私の愚かさが招いたことです……」


 辺境伯が首を垂れる。今回のことで、彼は政治的に難しい立場に置かれるはずだ。


「いまは、信頼回復に努めることが何よりも大切です。二度と殿下を失望させてはいけない。通路の改良はもちろん、運用にはより厳しい基準を適用します。このようなことはもう二度と起こらないと、はっきりさせなくてはいけない」


 頭を上げた辺境伯は、ひたむきな表情をしていた。厳しい現実を悟っている人の顔だ。

 ルーファスがわずかに眼を鋭くして、辺境伯を見据えた。


「貴殿が我が兄から、厳しい叱責を受けることは間違いない。しばらくの間は責任を果たすために汲々とするだろう。無駄な時間は費やさず、可能な限り迅速に処理にあたってくれ」


 辺境伯は「はい」と返事をした。溢れそうになる涙を必死にこらえている。


「ソフィーのことは心配いらない。彼女を自分の目で見て、信頼できる人柄だと判断した。誠実さは疑う余地がないし、真面目で教養もある。なにより、ミネルバに対する忠誠心があるからな。女官として彼女以上の適任者はいない」


 そう言って、ルーファスは護衛たちのほうを振り返った。ぺリルが前に進み出て、丸められた紙を差し出す。ルーファスはそれを受け取って、ミネルバにも見えるように広げた。


「皇家専用の特殊な紙で作られた、正式な官職任命書だ。昨日のうちに、ジェムに用意させておいた。これをソフィーに渡してやってくれ。早く荷造りをしたくて、うずうずしているに違いないからな」


「ルーファス……ありがとう」


 ミネルバは任命書を受け取り、改めてソフィーのほうを向いた。


「ソフィー・ギルガレン辺境伯令嬢。あなたを私の筆頭女官に任命します」


「この上もない名誉でございます。ミネルバ様に、ひたむきにお仕えすることを誓います」


 ソフィーが任命書を受け取る。その瞬間、彼女は凛々しい宮廷女官へと変貌した。


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