第5話 大使夫妻

 グレイリングの大使館があるのは、見晴らしのいい丘の上だ。

 大使館と大使公邸、職員とその家族のための住宅、学校や病院、訓練施設はもちろんレクリエーション施設までが揃っており、それらすべてがぐるりと壁で囲まれている。

 馬を駆って丘の下までたどり着いたミネルバとマーカスは、検問所の門番に許可証を見せた。門番は驚いた様子もなく、すぐに壁内に入れてくれた。


「すごいな、港の船の出入りが見下ろせるのか。王宮も丸見えだ。フィルバートのいる場所を、こうやって下に見るのは気分爽快だな」


「本当ね。ここにある建物はどれも荘厳で堅牢そうで……壁の内部は要塞になっていたのね、初めて知ったわ。ぱっと見ただけでも、敵の侵入を食い止める仕掛けがいくつもある。普通の許可証では、こんなに上まで入れてもらえないのも当り前ね」


 壁内の人々は誰もが勤勉そうで、規律を厳格に守っていることが伝わってくる。ミネルバは、グレイリングがまぎれもない強国であることを身にしみて感じた。

 職員の指示に従って、ミネルバとマーカスは大使公邸に向かった。公邸付きの執事は恭しく2人を出迎え、立派な応接室に案内してくれた。

 椅子に座って大使夫妻を待つ間、ミネルバは心の中で「自信に満ちた堂々とした態度でいること」と己に言い聞かせていた。


(ルーファス様が指示を出した以上、私を保護することは大使閣下にとって公的な仕事。ご迷惑をかけてしまって申し訳ない……でも、卑屈になってはいけない)


 大使閣下はグレイリングの爵位を持っているに違いない。格下のミネルバが、厳しく冷ややかな態度を取られても致し方のないことだ。

 緊張しながらそんな事を考えていると、コンコン、コンコン、と4回のノックが響いた。世界標準のマナーでは、礼儀が必要な相手の場合は4回扉を叩くことになっている。

 ミネルバとマーカスが椅子から立ち上がると、大きく扉が開いた。一見してきちんとした職にあるとわかる若い男性と、愛くるしい顔立ちの女性が入ってきた。


「マーカス殿、ミネルバ嬢、ようこそお越しくださいました。私は ニコラス・フィンチと申します。特命全権大使であり、伯爵の爵位を持っております」


 ニコラスが歓迎の笑みを浮かべる。彼のまなざしがあまりにも親しげで面食らったが、ミネルバは礼儀正しく頭を下げた。

 同じように頭を下げたマーカスが、顔を上げて挨拶を述べる。


「はじめましてフィンチ閣下。我が妹ミネルバの保護に同意していただき、誠にありがとうございます」


「いえいえ、頼ってもらえて嬉しい限りです。ミネルバ嬢はご苦労が多いですね。でも、私の保護下にいる限り安全ですよ。ここを攻撃するのは国際法違反ですし、謀反と同じことですからね。愚かな行為をすれば一週間と持たずにアシュランは滅びます」


 ニコラスが笑みを深くした。彼はくせのある茶色い髪と緑の瞳の持ち主で、細くしなやかな身体つきをしている。優しい顔立ちに丸眼鏡をかけていて、学者のようにも見える人だ。


「ありがとうございますフィンチ閣下、お心遣いに感謝いたします」


 ミネルバは儀礼的ではない笑顔を浮かべた。

 ニコラスがうなずき、自分の横に立つ女性に目を向ける。


「ご紹介しますね、妻のシーリアです。私たちは一年前にこちらに赴任したので、バートネット公爵家の皆様とはお会いする機会がありませんでしたが。妻はミネルバ嬢の来訪を、今か今かと待ちわびていたんですよ。実現しない方がいいことなんだと、たしなめてはいたのですが」


 長い黒髪ときらめく青い瞳の女性が、嬉しそうに笑いながら前に進み出た。どうやら彼女はミネルバに好ましい印象を持っているらしい。


「はじめましてミネルバさん。私、あなたにお会いするのを楽しみにしていたの。ルーファス殿下から、とても美しい人だと聞いていたから。どれくらい美しいか想像がつかなかったんだけど、いまわかったわ。殿下のおっしゃる通り、あなたは美の女神ね!」


 シーリアが目を輝かせて、感心したようにミネルバを見る。ミネルバは「はじめまして」と答えながら、頬が紅潮するのを感じた。


「ルーファス殿下が到着するまで、私がミネルバさんのお世話をするわ。なんでも遠慮なく言ってちょうだいね」

  

 シーリアのお腹は大きく膨らんでいて、新たな命を育んでいることがひと目でわかる。ニコラスと同じように全身から貴族的な雰囲気が漂っているし、グレイリングの有力者の娘であることは間違いがなさそうだ。

 そんな人の手を煩わせることに申し訳なさを感じていると、シーリアは気にするなと言わんばかりにミネルバの手を握ってきた。


「私たち、赴任してすぐに王太子の結婚式に招かれたの。あなたが理不尽に婚約破棄されたことは知っていたから、本当は出席したくなかったんだけど。だって、節操がなくて不誠実な人のことなんか祝いたくないじゃない?」


 シーリアが当時の怒りを思い出したかのように、ぎゅうっとミネルバの手を握り締めてくる。


「非があるのはミネルバさんじゃなくて、あの王太子のほうなのに。王太子妃は下品だし、披露宴の演出も奇抜で辟易したわ。婚約破棄は浮気した側が悪いのに、あの人たちちっとも恥ずかしく思ってないんだから!」


 心の底から憤っているらしく、シーリアは小さな声で淑女らしくない悪態をついた。

 シーリアはミネルバより2、3歳年上に見える。婚約破棄されたことで友人を失ってしまったミネルバは、ほぼ同年代の女性から同情されるのが初めてだった。

 胸がじんわりと温かくなるのを感じていると、ニコラスが妻の様子に苦笑しながら「座りましょうか」と優しく促した。

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