第1部2章

第1話 3人の兄たち

 ルーファスとの出会いから一週間が過ぎた。

 あれからバートネット公爵家のタウンハウスの中では、どこでも3人の兄たちのにぎやかな声が聞こえてくる。


「いやあ、あのときのフィルバートの間抜け面は本当に見ごたえがあったなあ。皇弟殿下のおかげでスカッとした!」

 次兄のマーカスが肩を揺らし、瞳に涙が浮かぶほど笑っている。


「芝居小屋でも、あれほど愉快なものは見たことがないよ。フィルバートはあの破廉恥な茶会で、僕たちにも散々嫌味を言っていたからね。あいつは『新しい自由』とやらを見せつけるつもりだったんだ。それが、ルーファス殿下にこっぴどく叱責されるはめになった。ざまあみろだっ!」

 一番下の兄コリンが腹を抱えてソファに倒れ込む。


「あんないかれた女にのぼせ上がっているフィルバートは、救いようのない愚か者だ。まったく、いま思い出しても胸が悪くなるような衣装だった」

 長兄ジャスティンが椅子の背にもたれ、穏やかな笑みを浮かべた。


「あの図々しくて恥知らずなセリカに異世界流の『自由』とやらを吹き込まれて、フィルバートは変わってしまった。俺が思っていたとおり、あの女に振り回されて自滅への道を突き進んでやがる!」

 マーカスがふんと鼻を鳴らす。


 コリンはくすくすと忍び笑いを漏らした。

「僕たちはもうフィルバートの側近ではないから、知ったことではないけどね。あいつの『やらかし』に目を光らせる必要のない毎日って素晴らしいよ!」


「そのとおりだな」

 ジャスティンが笑いをかみ殺すように頭を後ろに反らした。

「ルーファス殿下はこの一週間で、フィルバートとセリカに関するあらゆる情報を手に入れたはずだ。私が思うに、彼らの行状はグレイリングの皇帝陛下のお耳に入っていたんだろう。我が国に対して、監視の目を光らせていないはずがないからね」


 マーカスがジャスティンを見ながらうなずき、大きく笑みを広げた。

「不意を突くことで、その人物の真の姿を見ることができるからな。セリカがのさばってやりたい放題の西翼を、ルーファス殿下はあえて先触れもなしに訪れたに違いない!」


 兄たちがひっきりなしに笑い声をあげ、楽しそうにしゃべる姿を、ミネルバはただ微笑んで見守っていた。

 1年前にミネルバが未来の王太子妃の座を失うと同時に、兄たちも王太子の側近の任を解かれた。揃って社交界の花形だった彼らの肩にも、ミネルバの醜聞はずっしりと重くのしかかっていたのだ。

 王太子フィルバートは、国王夫妻にとっては手に負えない頭痛の種だった。その一方で、手放しで愛する存在でもあった。

 フィルバートは現国王キーナンと王妃オリヴィアの息子ではない。彼らの息子は妻とともに船の事故で亡くなってしまった。まだ6歳の幼い男の子を残して。

 つまりフィルバートは国王夫妻の『たったひとりの孫』なのだ。

 両親を一度に失った哀れな孫は、男の子同士の丁々発止の駆け引きが苦手だった。本を読むことも好きになれず、数字の羅列も大嫌い。

 少々頭が足りないのなら他人が補えばいい──そう思った国王夫妻は、バートネット公爵家の三兄弟をまとめて孫の側近にすることにした。

 3人は性格こそ違うが揃ってまじめな人間で、与えられた責任を中途半端に投げ出すようなタイプではない。もちろん側近はほかにもいたが、兄たちはフィルバートのお気に入りになった。

 陰で支える人間の苦労などまるで考えない、わがまま放題のフィルバートに振り回されても、彼らは何ひとつ文句を言わなかった。フィルバートのために惜しみなく時間を使い、彼を助け、支え続けてきたのだ。

 フィルバートはじっとしていられない性分で、毎日のように三兄弟を外へと連れだした。城下の食事処、ダンスホールや芝居小屋、乗馬や狩り──兄たちにとって、そういった日々が楽しくなかったわけではないらしい。

 セリカに出会うまでのフィルバートは、祖父母の愛に恵まれてわがままではあるが、好ましい美点もたくさん持っていたのだ。

 王太子にしてはのんきだが、明るい性格で親切で、国民とのふれあいを大切にする。勉強面は駄目だが、容貌は絵に描いたように美しく、若い淑女たちのあこがれの的。意志は弱いが臣下に優しい人だった。

 孫息子のことをよく理解している国王夫妻が、ミネルバを婚約者に選んだのは自然の流れだったと言えるだろう。

 ミネルバは女だてらに、つねに本を読んでいるか、頭の中で計算問題を解いているような子どもだった。

 ただ美しいだけの娘よりも、退屈なほど生真面目なミネルバのほうがフィルバートを支えられるに違いない──国王夫妻のそんな配慮は、結局無駄になってしまったけれど。


「まあ、あれだけ情状酌量の余地のない醜態を晒したんだ。フィルバートとセリカが、まったくおとがめなしということにはならないだろう。ルーファス殿下は決断力があって意志が強いお人だと聞く。しかし彼はつねに皇帝トリスタン様の意見を尊重し、出過ぎた振る舞いをしないことでも有名だ」


「そうだな、フィルバートの問題はいったん帝国に持ち帰るに違いない。トリスタン様は公明正大なお方で、宗主国の皇帝として期待される資質をすべて兼ね備えておられる。正しくは健康面以外では、ということだが」


「そうだね。皇帝陛下は思いやりに溢れた人物だとも聞くし、一度の失敗で切って捨てるようなことはなさらないかもしれない。でも、フィルバートがかなり追い込まれていることはたしかだよ。機会が訪れたら躊躇なく攻撃するための材料として利用するんじゃないかな」


 3人の兄たちの声が順番に耳に届く。フィルバートがセリカに出会った当初は、彼らは主君を説き伏せようと必死だった。

 だがこの1年のフィルバートの振る舞いが、兄たちからありとあらゆる感情を搾り取ってしまった。


「それはそうと、ルーファス殿下はまだ独身でいらっしゃるだろう? 彼のような人が、ミネルバを娶ってくれたらいいのになあ。僕はふたりの間に、何か特別なものを感じたんだ」


 コリンの言葉に、ミネルバは思わず椅子から飛び上がった。


「何を言うのコリン兄様! 皇弟殿下は世界に名だたる名家から、好きなように相手を選べる身分なのよ。私には、罪悪感と同情心から親切にしてくださっただけ。私が殿下と関わるだなんて、もう二度とあり得ないわ」


 フィルバートとの婚約破棄の一件も、ルーファスは知っていたに違いない。

 互いに自己紹介をしたあのとき、彼が足を止めてじっと見つめてきたのは、ミネルバが醜聞にまみれた娘だと気づいたからなのだろう。

 そんなことを考えながら、ミネルバはなぜかひどく落ち込んでしまった。慌てて己を叱責する。身分違いの男性に思いを寄せるなんてあってはならないことだ。


「ん、どこぞの馬車がやってきたようだぞ」

 

 ふいにマーカスが立ち上がって、窓のほうへと向かった。ジャスティンとコリンも後に続く。

 しばらくしてから、3人の兄たちはミネルバのほうを振り返った。そして同時ににやりと笑う。


「もう二度とあり得ない、という予想が早速外れたぞミネルバ。ほら見ろ、グレイリング帝国の紋章が入った馬車だ。先触れなしということはないだろうから、使者が来たか贈り物かのどっちかじゃないか?」


 ジャスティンがさらりと言った。ミネルバはもう一度椅子から飛び上がった。

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