第179話母の実家

「……わからない?」


 マールトとしては俺が自身の妹の名を口にするとでも思ったのだろう。俺の言葉を聞いてマールトは眉を顰めて問い返してきたが、俺は何もふざけちゃいない。わからない。それが今の俺の本当の想いだ。


「はい。あいにくと生まれた直後に捨てられたために、母親の顔を覚えていないのです。母親、らしき人物の存在は知っていますが、見たこともあったことも、会話したこともないので、その人が本当に母親なのか、母親と思えるのか……母親と、呼んでもいいのか。わからないんです」


 母親を探しているし、本当に会えたのなら母親と呼びたいとは思っているはずだ。だが、あくまでも思っている〝はず〟でしかないんだ。覚悟がなく、迷い続けている今の俺は、実際にあってみるまで母を母と呼んでいいのかわからないし、そう呼びたくなるかもわからない。


 そもそも、相手だって本当に俺のことを息子として扱うかどうかもわからないんだ。

『壊れた』。そう評されるほどなんだから、俺のことを本当の息子なんだと認めるかどうか……いや、理解できるかどうかもわからない。


「だから、母の名は言えません。本当に母親がいるのか、わかりませんから」

「……では、一つだけ聞こう。君は捨てられたと言ったが、母親が実際にいたとして、その者を恨んではいないのか?」


 俺のことを捨てた母親を恨んでいるのか、か。確かに恨んでいてここまで来たんだったら、それは復讐のためにきたことになる。もしそうなら自身の妹を傷つけるかもしれないんだ。心配して当然だな。


 だが、母親と思うか、思えるかどうかは別にしても、俺が捨てられたってだけであの人を恨むことなんてあるはずがない。


「それはありません」

「なぜだ? 顔もわからず会ったことも見たこともない他人だろう? 捨てられた、とあれば、そんな人物は恨んでもおかしくないと思うし、今はそう思っていなくても実際に会ってみたら、ということもあり得る。だというのに、どうしてそうも断言できる?」

「顔は覚えていなくとも、声は覚えています。ぼんやりとした視界の中で、最後までずっと抱きしめながら謝り、泣き続けたあの声は今でも覚えている。アレを聞いてしまえば、恨むことなんてできるはずがない」


 そうだ。顔なんて、覚えていないどころかはっきりと見たことすらない。だがそれでも、離れるまで泣き続けた声を覚えている。抱きしめ続けられた感触を覚えている。いつまでも手を伸ばし続けた光景だって、忘れることなく覚え続けている。


 あの人を母親だと思うことができるかはわからない。だが、あれが母親なんだとしたら、あんなに俺のために泣いた人を恨めるはずがない。


「そうか……そうか。ならば、いい」


 そんな俺の答えに納得したのか、マールトは一度めを瞑り息を吐き出すと、目を開いてからそう言ってふっと笑った。


「だがあいにくと、さっき言ったように妹は少し出ていてね。悪いけど、しばらくこの城で待っていてくれないか? 部屋は用意しよう」

「ありがとうございます。ではしばらくの間ご迷惑をおかけしますが、お世話になります」


 それからしばらく、部屋の用意ができるまでの間はマールトに俺以外のやつ……ソフィアとかリリア、後レーネの紹介をしたり挨拶を交わしていたのだが、そちらは俺の時に比べて何とも穏やかに進んだ。まあ、レーネは相変わらず緊張していたし、リリアは相変わらず緊張なんてかけらもせずにいた。むしろリリアに関してはマールトの方が気を使い始めたくらいだ。そいつにお菓子なんて用意しなくてもいいってのに。


 そうして話をし始めてからしばらくすると、部屋のドアが叩かれた。


「入れ」


 部屋の主であるマールトの言葉に従ってドアは開かれ、その奥からは先ほどこの部屋に来る前に離れた領主夫人とその息子が姿を見せた。


「マールト様、お呼びとのことですがいかがされましたか?」

「ああ来たか。入ってくれ」

「あら……?」


 その驚きはなにが原因だったのだろうか。領主夫人は部屋の仲をざっと見回した後、自身の夫であるマールトに視線を止めて首を傾げた。


 だが、すぐに何かに納得したような様子を見せると、優しげに笑った。


「先ほど挨拶をしたが、改めてと思ってな。今回も王女殿下がやって来て下さった。とは言っても、特にこれといった事はないから普段通りにしてくれればそれでいいそうだ」

「今回はそれなりの期間留まらせていただくことになりますが、よろしくお願いいたしますね」


 そこまでは先ほどの挨拶ですでに行っていたので大した問題にはならず、スムーズに話が進んだ。


「それから、紹介しよう。この二人は私の家族。妻のメリーチェと息子のアウグストだ」


 しかし、そこからが少し問題だった。問題と言っても進行を妨げるほどではないから無視していくけど。


 マールトに紹介されると妻のメリーチェの方はにこやかに笑いながら優雅に礼をしてきたのだが、息子であるアウグストの方は一応の礼はしたものの俺のことを険しい表情で睨んでいる。

 その目は不審者を見るような敵意と疑惑の込められている目だ。多分だが、この息子は俺についての話を聞いていないんだろう。


「二人とも、こちらは妹の客人であるヴェスナー君と、その従者のソフィア嬢。それからフィーリアの友人のリーリーア様とレーネ嬢だ」


 リリアだけ様づけなのは、一応こいつがお姫様枠だからだろう。到底お姫様なんて柄ではないが。


 だが、マールトがそう言った瞬間メリーチェと呼ばれた女性の方はぴくりと笑顔を崩して反応したので俺のことがわかっているんだろう。その後に小さく頷いたことを見るに、今理解したのではなく、そうだと考えていたことの確証を得たって感じか。


「初めまして。メリーチェ・アルドノフです。〝色々と〟難しい事情があるのでしょうけれど、歓迎いたします。自分の家だと思ってくつろいでくださって構いませんわ」


 色々と、ね。まあ確かに色々難しい事情はあるな。


「……アウグスト・アルドノフだ」


 そうして息子の方も名乗ったが、やっぱりなんか敵意のある目だな。まあ、仕方ないっちゃ仕方ないか。何も知らされていないんだったら、俺なんて突然やってきたどこかの誰かでしかないんだから。

 ソフィアたちは何ともないのに俺だけ睨んでいるのは、俺が男だからだろうか。フィーリアのことを狙ってる、みたいなふうに思われたのかもしれない。


「初めまして、ヴェスナーと申します。皆様にはご迷惑をおかけすることもあるかと存じますが、しばらくの間よろしくお願いいたします」


 だが、俺としてはこの家の者たちとは仲良くしておきたいと思っている。今後俺は母親にどう接するのかはわからないが、それでも今だけだとしても一度は受け入れてくれたんだ。だったら俺も相応の態度で接するべきだろう。

 多少事情を知らない子供に喧嘩を売られたとしても、殺したり重傷を負わせたりすることなく軽くあしらって終わりにしよう。これでももう十年以上前のことだが前世は平均的な日本人だったんだ。日本人の標準装備スキルである『空気を読む』と『八方美人』と『ご機嫌伺い』は習得済みだ。好きか嫌いかで言ったら嫌いだができないわけではない。

 そもそもフィーリアは妹だ。手を出すつもりはないし、誤解が解ければまあそれなりには接することもできるようになるだろうし、そうなったら普通にいとこの関係になるんだ。過度の傷を負わせたりはできない。


「旦那さま。お部屋のご用意ができました」

「そうか。では案内してやりなさい。——ああ、フィーリアは残って欲しい」


 そうして領主一家とフィーリアだけが残され、俺たち四人は使用人に案内されてそれぞれの部屋へと向かうことになった。


「どうぞ、こちらです。何か御用がおありでしたら申し付けくだされば、即座に対応させていただきます」


 案内された部屋の中に入ると、そこはどこぞのホテルよりも豪華な一室で、先ほどの応接室なんかよりも金をかけてるんじゃないかってくらいの部屋だった。


 そんな部屋を軽く見回した後、俺は近くにあったソファーへと腰を下ろし、大きく息を吐き出した。


「っはあああ〜〜〜……」

「お疲れ様です」


 それぞれの部屋に案内されたはずなのにソフィアは何故か俺の部屋にいるが、もう今更なので気にしない。


「ソフィアもな。ここまでずっと馬車を任せて悪かったな」


 部屋に案内され一息つくことができたので、俺はこれまでのことを思い出して改めてソフィアへと礼を言った。

 ここにくるまでおおよそ一週間程度かかったが、その間ソフィアはずっと御者をやってくれていた。道中では運転をしながら裁縫をしたりしていたみたいだし、俺もできる限り話し相手になったりはしていたのだが、それでもずっとと言うのは大変だっただろう。


「いえ、それが私の役目ですから。それにしても……」


 ソフィアは俺の言葉をさらりと流すと話題を変えるためか言葉を続けた。

 だが、その頬は少しばかり赤くなっているし、口角も僅かに上がっているので嬉しいんだろう。その程度の変化、カラカスで商人と騙し合いをしたり孤児院で化かし合いをてた俺には隠し切れないが、まあ黙っておこう。


「ん?」

「間が悪かったようですね」

「ああ。だな。……ただ、これはこれで良かったかもしれない。いきなり母にも伯父にも従兄弟にもってなると、流石にちょっと混乱するから」


 一応伯父にあたるマールトと話しただけでも結構疲れてるんだ。今の状態で母親にあったとしても、まともに対応できるかどうか怪しい。

 こうして母の実家に滞在することができたわけだし、その間に少しでも考えをまとめることができるようにしたい。


「先程の紹介、夫人の方は気づいておられたようですね」

「みたいだな。息子の方は気づいていないのか、そもそも何も知らされていないのか……」

「知らされていないのではないでしょうか? あまり腹芸が得意な方のようにも見えませんでしたから」

「まあ、印象としては生真面目な騎士って感じだよな」


 フィーリアの配下にラインっていう俺に最初喧嘩を売ってきたアホがいたが、そいつと似たような感じ。つまりは脳筋だ。あれよりはマシみたいだが、目先のこと、見えるものしか見ていないというか、深くかんがるのが苦手そうな印象だ。

 多分滞在中に何かしらで突っかかってくると思うが、その時はそれなりに相手をしてやろう。


「なんにしても、俺たちに関してはここのトップが理解してて、王女が説明するんだから悪いようにはならないだろ」


 フィーリアがあの場に残されたのは色々な説明のためだろうし、あとはあいつに任せておけば大丈夫だろ。少なくとも、ここの領主自身は納得して俺たちの滞在を認めたわけだし、最悪でも追い出されることはないはずだ。


「そうですね。その間はゆっくりできるわけですし、お母君が戻って来られるまでに多少時間がかかるでしょうからその間に覚悟を決められるといいですね」

「……お前も言うなぁ。でも、まあその通りだよな」


 未だ覚悟を決められていない俺の急所つくような言葉だが、実際にその通りだ。何を話すかは考え付かなくても、最低でも会って話すことに怯まないようにしなくてはならない。


「こっちに戻ってくるまでどれくらい時間がかかると思う?」

「お母君ですか? そうですね……王妃であることを考えると馬ではなく馬車、それから支援の担当をしているとなると単独で向かうよりもそれなりの量の物資を共に持って行ったと考えるべきでしょうから、通常時よりも時間がかかると思います。ここから砦までは馬車で片道三日と言ったところ。それより遅くなると考えると片道四日、余裕を持つと五日といったところでしょうか」


 片道最大で五日かかるとなると結構時間がかかるな。ついてすぐにこっちに帰ってくるわけでもないし、帰りは荷物がなくて多少速くなるにしても、一日二日変わる程度だろう。


「単純に往復十日か。着いて速攻で帰ってくるってわけでもないだろうし、まあやっぱり二週間ってところか」


 改めて考えてみたが、やはりマールトの言っていたように母がこちらに帰ってくるまでには二週間程度かかるだろう。


「支援に関する話し合いといっても、すでに決まっている枠組みからそれほど大きく外れることはないでしょうし時間はさほどかからないでしょう。それから、荷物も向こうにおいてくることになりますのでもう少し早くなると思いますが、やはり大体二週間前後と考えておけばよろしいかと」

「二週間、か……長いようで短いよな」


 今まで半年以上あって考え付かなかったことに答えを出すのであれば、二週間なんて〝たった〟二週間でしかない。あまりにも短すぎる。

 だが誰かに手伝ってもらうにしても自分の気持ちの問題なのでどうしようもない。


「それに、こればっかりは自分で答えを出すしかないよな」


 そう口にした俺だが、今はひとまずこれまでの旅の疲れを癒すことにして、ソフィアの出してくれたお茶を飲むことにした。

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