第9話

 放送室には二つの部屋がある。ひとつはスタジオで、もうひとつは副調整室だ。まず入口を開けると副調整室があり、その奥まった場所にあるドアを開けると、スタジオに続く構造となっている。


 俺、侑希、浅野の三人は、電気の点いていないスタジオで息を潜めていた。それぞれが二つの部屋をつなぐ防音ガラスの端から副調整室の室内を窺っている。

「そこの部屋に隠れて、副調整室の様子を見ていろ」と姉から指示を受けたためだ。


 加えて姉は「スタジオの扉をわずかに開けておけ」とも言った。その意味するところはよくわからないが、そうしている。


 副調整室の中央には姉がいる。学習机と椅子のセットが二つ、向かい合う形で並ぶ一方に腰掛け、会社四季報をパラパラと読み流している。


「ねぇ、本当に江崎先生は君のお姉さんなの……?」浅野が訊いてくる。


 口調からすると、まだ江崎京子が俺の姉であることが信じられないようだ。浅野が俺と姉の関係を知ったのは、今朝のホームルーム前の話である。作戦のことを伝えるや、「なぜ江崎先生が一枚噛んでいるのか?」と再三問うてくるため、結果白状する運びとなった。


「そんな意外?」


 俺の代わりに侑希が応じる。


「うん。だって顔が全然違うし、多分性格も……」


 俺に遠慮しているのだろう。浅野が言い淀んだので、俺が以降を引き受ける。


「まぁ、姉貴は変わり者だからな。一年五組の授業でもめちゃくちゃやってたんだろ、きっと」


 姉は今日から一年五組の授業を受け持っているらしい。きっとカリキュラムやシラバスを完全に無視した授業を展開していたのだろう。アカハラも当然行っているはずだ。


「……うん」と浅野が答える。


 やっぱりな。

 姉と俺の関係を知られないよう、最大限努力せねば、と決意を新たにする。


「あ、誰か来たみたい」


 侑希のその言葉が合図となり、俺たち三人は申し合わせたように黙りこんだ。「人が入ってきたら息を殺して見守るように」と、やはり姉から指示を受けていたからだ。


 放送室の扉がゆっくりと開く。その先には風井が立っている。不満と警戒を同時に表すように、眉間に若干の皺ができている。


「やぁ、君が風井君か」


 四季報を閉じて机上に置いた姉が、軽い口調で話しかけた。


「そうですけど」


 風井は入口に立ったまま、ぶっきらぼうに答える。


「そんなところにいてもなんだからそこに座りたまえ」


 姉が向かい側の席を手で指し示すと、風井は視線を上下左右に漂わせながら、ゆっくりとした動きで部屋に入ってきた。そのまま慎重な姿勢を崩すことなく席にかける。


「話って何ですか?」


 風井が先に口を開いた。


「なに、少し君に聞きたいことがあってな。さる人物から君が一年五組の浅野君を恐喝していると聞いたんだ」


 呼び出された理由が分かり、安心したのだろう。得体の知れないものを相手にしているような風井の表情が、余裕のあるものへと変わっていく。


「なんだ、そんなことですか。それだったら…」

「まぁ、待ちたまえ」


 姉は少しボリュームを上げた声で風井の言葉を遮った。


「そのことに関してだが、ゲーム形式でやろう」

「ゲーム? どういうことですか?」

「今から君に二つの選択肢を与える。ひとつは浅野君への恐喝を認めず黙秘を貫く。ふたつめは浅野君への恐喝を認める。君にはどちらかを選んでもらう。なお、これは君の友人である上田くんにも受けてもらっているし、彼にも同じように君がこの質問を受けたと伝えてある。

 次に君と上田くんの選択の結果についてだ。二人が黙秘を選んだ場合、私は何もしない。君らが無罪と信じよう。だが、一方が自白、一方が黙秘の場合、自白した方は反省しているとして不問にするが、黙秘した方は恐喝犯として理事長および警察へ連絡する。そして、二人とも自白した場合、この場合は二人とも反省しているものとみなす。ただし、私としては何もしなわけにはいかないから、理事長への報告及び双方の親御さんに厳重注意という形をとらせてもらうことにしよう。

 あとは…」


 姉は言いながらパンツの右ポケットから長方形の物体を取り出した。それを見て思わず声が漏れそうになる。


 札束だった。金額は分からないが、少なくとも十万円程度の厚みはある。姉は風井側の学習机に札束を置き、その上に手を乗せたまま言った。


「片方が自白して一方が黙秘をした場合、恐喝行為は自白した側がいなければ解決し得なかった問題となる。当然、私は自白してくれた方には感謝の意を示したい」


 姉はゆっくりと札束から手を引いた。

 風井の目が見開かれ、机の上に釘付けとなっている。


「さぁ、どうする?」


 数秒ほど無言の時間が流れた。風井は緊張の面持ちで札束を見つめている。かと思うと、ある瞬間にハッとした表情を浮かべ、今度は笑みをたたえた。「なるほど」としたり顔になる。


「先生、つまり…」

「まて」


 姉が言葉を遮る。風井の口が止まり、真顔になった。


「まずは君の答えを聞こう。能書きはそれからだ」

「わかりました。答えは自白です。ぼくと上田は浅野くんを恐喝しました」


 風井の顔に小馬鹿にしたような笑みが戻る。


「これで満足ですか?」

「選択の理由を聞こうか」

「これはぼくと上田がともに自白するように仕向けられたゲームだ。お互い相手が裏切るかもしれないと考え、最適解の自白を選択する。そういうことでしょう?」


 なるほど、そういうことか。

 俺にもようやく姉の狙いが分かり始めた。風井が自白を選択した場合、上田が黙秘なら金を貰え無罪、自白でも厳重注意で済む。一方、黙秘を選択すれば、上田が黙秘の場合は無罪だが金を貰えず、自白なら警察へ行くという最悪の結果になってしまう。そして、これはそっくり上田にも当てはまる。


 仮に、この場に風井と上田の両方がいれば、相談の上、両者黙秘という選択もあっただろう。それならお互い最悪の結果は回避できる。しかし、それぞれが隔離されたこの状況では、相手を信じて黙秘を選択するのは難しい。お互い「相手は警察へ行くことのない、そしてあわよくば金が手に入る自白を選ぶはずだ」と考えるからだ。結果、両者ともども、警察へ行くことのない自白を選択するほかない。これはそういう仕組みのゲームだ。


 だが―


 こんなゲームで引き出した自白にいったい何の意味があるというんだ? 姉の狙いはなんだ?


「その通りだ、なかなか良い頭を持っているじゃないか」

「どうも。でも先生、これにいったい何の意味があるんです?」風井は小馬鹿にするような調子で吐き捨てた。

「ぼくが自白を選んだのはあくまでゲームだからですよ。本当に浅野くんからカツアゲをしたからじゃありません。誰だって金は欲しいし、警察へは行きたくない。上田だって同じことです。あいつも自白を選んだんでしょう。でも、それはただ単にそういう条件が与えられたゲームだからです。ぼくらの発言は何の証拠にもなりません」


 風井の言う通りだ。


 風井と上田の自白はゲームの仕組み上、強制的に引き出されたものに過ぎない。もし、姉がこの自白を証拠にしようとしているのなら、それは無理筋だ。警察はおろか理事長すら相手にしてくれないだろう。


「だろうな」と姉が応じる。

「なら、どうしてこんな馬鹿げたことをするんです? ぼくには先生の頭が悪いとしか思えませんが」

「そうだな、さて、時に風井君、これまでで君は何か違和感を感じなかったかな?」


 不意の質問のせいか、風井の表情から笑みが消え、警戒の色が浮かんだ。


「……いえ、特には」

「そうか。では質問を変えよう。私はこの札束のことを『感謝の意』と呼んでいたが、それは何故だと思う?」


 途端、風井がハッとした表情を浮かべ、何かを探すように慌てて視線を周囲に漂わせはじめた。


「辺りを見回しても何もないよ。君の探し物はこれだろう?」


 姉はパンツの左ポケットからスマートフォンを取り出すと、その画面を風井に見せた。


「この音声データ、君の自白部分だけを聞かせれば、立派な証拠にはらないかな?」


 場がしんと静まり返った。風井の顔面がみるみる蒼白になっていく。


「その様子だと察しはついてるみたいだな。そう、君の思っている通り、"この録音データだけを聞けば、君らに自白のメリットは一切ない"ということになる。しかし、それにも関わらず君は自白した。第三者がこのデータを聴けば、おおかたは『罪の重さに耐えられなくなったんだな』とでも判断してくれるだろう」


 そういうことか。ようやく姉の狙いが見えた。


 たしかに録音データには「金」というワードが一切出ていないはずだ。なぜなら姉は「金」というワードを使わず「感謝の意」と表現していたからだ。


 つまり風井と上田が、お互いに相手が裏切るだろうと予想するために必要な要素が、音声データの上では消えたことになる。そして金というメリットが無くなれば、二人にとって最も合理的な選択は"黙秘による無罪の勝ち取り"だ。


 しかし、録音データ上の風井は自白をしている。これでは立派な罪の告白だ。


 風井は顔面蒼白のまま動かなくなり、姉がそれを無言で見つめている。そんな時間がしばらく続いた。


「さて」と言って姉が席から立ち上がる。


「今回、君はある意味で不正解の選択をしたと言える。それについては残念なことだ。だが、一方で、囚人のジレンマに素早く気付けた点は高く評価できる。だから、というわけではないが、その十万円は君にくれてやってもいい」

「え?」


 風井が顔を上げて、姉を見上げる。驚きと警戒がいっしょくたになったような表情だ。


「ついでに録音データも消してあげよう」

「……どういう、ことですか?」

「もちろん、タダじゃない。君がこれから言う二つの条件を飲んでくれるのなら、の話だ」


 風井の顔に緊張の色が滲む。


「一つは浅野くんへの恐喝行為を止めること。もう一つは経済学同好会に入会することだ」

「経済学同好会?」唐突に初耳の単語を聞いたためだろう。風井が反射的に訊き返した。

「ああ。これからこの学校にできる同好会の名だ。君にはその創設メンバーとなってもらいたい。活動は時々だし、一回あたりの時間も十五分程度のものだから大した負担にはならないはずだ」

「……どうしてその程度のことで十万をくれるんですか?」


 風井がおずおずと訊く。目はセールスマンにうまい話を聞かされている時のそれだ。


「どうして? 決まってるだろう、それが適正価格だと思ったからだ」


 あっけらかんと答える姉に、風井はつかみどころのない人間を見るような目で「はぁ……」と言った。


「私は君の能力に対してはそれくらいの査定をしている、ととってくれても構わない。で、どうするんだ?」

「それは、まぁ、条件を飲みますけど……」


 姉が満足げな笑みを浮かべる。


「君ならそう言ってくれると思っていたよ。なら、これで話は終わりだ」


 姉がスタジオ側に顔を向け、「三人とも出てきていいぞ」と俺たちに呼びかける。俺と浅野、侑希の三人はスタジオの扉を全開にして副調整室に入った。風井の見開いた目がこちらを向く。


「風井くん。君には悪いが、この三人にはスタジオに隠れてもらっていたんだ。私の都合でな」

「……どういう、ことなんですか?」


 風井は俺たちに視線を向けたまま、姉に訊いた。そして、風井の疑問は俺の疑問でもある。俺は風井の言葉に続いた。


「そうだ。どういうつもりなんだ? なんでこの場に俺たちが必要だったんだよ」

「今言ったばかりじゃないか。私のためだ」


 姉は「さて」と言ってから続ける。


「今度は君たちの番だ。まず一志」

「だから学校では名前で呼ぶなって」


 俺は姉を叱責しつつ、風井の方をちらと見た。案の定、風井は詮索するように眉根を寄せて、俺を見ている。これで俺と姉の関係はこの男にまで知られることになりそうだ、と落胆しつつ、姉へと視線を戻す。


「一志には事前の約束に従い、経済学同好会に入会してもらう。異存はないな?」

「ああ、約束だからな」


 姉は「よし」と言って、視線を浅野へと移す。


「では次に浅野くん。君、経済学同好会に入会しないか?」

「えっ?」


 浅野が不意打ちを食らったような声をあげる。


「ちょっと待て」


 俺は慌てて口を挟んだ。


「その経済学同好会には風井も入るんだろ? それなら浅野は誘うべきじゃないだろ」


 問題は解決したとはいえ、風井と浅野は加害者と被害者の関係だ。その二人が一緒の同好会にいるのは好ましいことじゃない。それに浅野自身も嫌なはずだ。


 だが次の瞬間、俺の後ろの方から「はい」と浅野の声が聞こえた。


「え?」


 今度は俺が不意打ちを食らう。慌てて浅野の方へと視線を移した。


「おい、風井がいるんだぞ、いいのかよ?」

「うん。江崎先生も江崎くんも面白そうだし」

「いや、そうじゃなくて…」


 風井がいる同好会に入ることになるんだぞ。お前はそれでいいのか? そう言おうとした時、姉が「一志」と横槍を入れた。


「今は私と浅野くんが話しているんだ。邪魔をするな」


 そう言われ、渋々口をつぐむ。たしかに、俺が口を出す筋合いはどこを探しても見当たらない。


「では、改めて君に意思を確認しておこう。浅野くん、君は経済学同好会に入会するか?」

「はい。よろしくお願いします」


 先ほどよりも元気な浅野の返事に姉は満足げな笑みを浮かべた。


「よし、これで経済学同好会は三人だ。晴れて活動開始だな」


 この段になって、俺はようやく気が付いた。なぜ姉が俺だけでなく、浅野まで放送室に呼び出したのか、ということに。


 つまり、姉はこう目論んでいたのだ。この機会に浅野を経済学同好会に入会させ、規定の人数を揃えてしまおう、と。だが、それなら侑希が呼ばれたのは何故だ? 侑希は何か役割を与えられたわけでもなければ、何かの役割を果たしたわけでもない。いてもいなくてもなんら変わりはなかったはずだ。


 しかし、俺がそんな疑問を抱えたのも束の間のことだった。それまで黙っていた侑希が突如として口を開き、「ちょっと待った」と言ったのだ。


「私もその同好会に入る。浅野くんを一志だけには任せておけない」


 ああ、なるほどそういうことか。

 風井と浅野が一緒の会に入るとなれば、正義漢の侑希が黙っているはずがない。結局、姉の計画通り、この場にいる全員がまんまと経済学同好会のメンバーになることとなったのだ。


 姉を見ると、そこには当然解ける方程式を解いた時のような、満足げな表情があった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

マッド経済学者・江崎京子の中学教員事件録 @garbage-collector

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ