第6話

 自力でやる、というのは日本人特有の美徳なのかもしれない。俺はよくそんなことを思う。


 もっと雑に言えば、「他人の力を借りずにまず自分でやれよバカ」ということで、SNSにも検索エンジンにもこの手の言葉はあふれている。


 一年前、俺は問題集の解説がよくわからず、ネットで知恵を募集したことがある。小学生なりのあざとさと、丁寧さを打算的に組み込んだ文章にしたつもりだったが、結果は芳しいものではなかった。肝心な答えは誰一人書いてくれず、皆申し合わせたようにこう書いていたのだ。


「問題は自分で考えてこそ意味があります。他人の力を借りるとあなたの血肉にはなりません。自分で考えましょう」と。


 その回答を見た俺は、「誰かが知ってるならそれを惜しみなく教えた方が効率がよくないか?」と疑問に感じたことを覚えている。そして、その気持ちは今も変わらない。


 ちなみに、その時の問題の解答を教えてくれたのは姉だった。ネット上の諸先輩方と同じような回答だろうと、半ばダメ元で訊いたみたのだが、姉のリアクションは意外なものだった。


 風呂上りにリビングでコーヒーを飲みながら新聞を広げていた姉は、「ほぉ、それはいい。人に頼るとはすばらしい発想ができるようになったじゃないか」と俺のことを褒めたのだ。ネット上の厳しい声に少し落ち込んでいた当時のうぶな俺は、その言葉で少なからず救われた気がした。


 ただ、その後が問題だった。


 姉は頼んでもいないのにリカードの比較優位論の解説をはじめたのだ。それは、いかに協力というものが素晴らしいか、ということの解説で、俺の知りたいことには一ミリの関係もないことだった。


 結局、俺が必要としている問題の解説が得られた頃には、質問から二時間近くの時が経っていた。




 頼る、頼られることに肯定的な姉。その姉に俺は今、久々の頼みごとをしようとしている。


 職員室の前に立つ。しかし、扉に手を伸ばす俺の腕はいつになく重い。学校内での肉親との会話がここまで気が進まないこととは……。そう思いつつ、「でも、背に腹はかえられないぞ」ともうひとりの自分が指摘してくる。


 重い腕の先にある指を、扉の取っ手に引っ掻けた。いつもより重く感じる扉を横にゆっくりとスライドさせていく。


「失礼します」


 挨拶をしながら職員室に入ると、扉のすぐ側にいる割烹着姿の男性に目がいった。膝立ちで出前の容器を回収している。しかし、動作は岡持ちに容器を入れる直前のところでフリーズしており、視線は容器でも岡持ちでもなく、教頭の机がある西を向いていた。そのことを疑問に思う間も無く、「ですからお断りします」という姉の無情な声が聞こえてくる。


 声のする方へと視線を転じると、立っている姉の背中が見えた。その奥には、上司に叱られるている部下のような顔をした教頭がいる。


「ですから一人一つの部活を受け持つのが当校の決まりでして……」

「無駄が多すぎます。素人顧問が毎日二時間も部活に出たところで無意味でしょう」


 姉の言葉に教頭が狼狽した様子で周囲を伺う。


「江崎先生、無駄というのはっちょっと……。ほら、周りに生徒もいることですし……」


 教頭の言葉を受けて姉も職員室全体を見渡し始めた。扇風機の首のようにゆっくりと周囲を眺めていき、俺と目が合ったところでそれが止まった。姉の口角がわずかに上がる。


 次の瞬間、姉は教頭の方を振り返って言った。


「わかりました。そこまでおっしゃるなら顧問になりましょう」


 教頭の表情が安堵に満ちたものになる。さながら出口を見つけた探検家だ。


「そ、そうですか! それでどこの部活の顧問を希望されますかな? まぁ、まずは副顧問という立場からになりますが…」

「経済学同好会でお願いします」

「はい?」

「確か、同好会は三人いれば認められるんですよね?」

「え、ええ、まぁ、発足の要件はそうですが。しかし、経済学同好会などというのは当校には…」

「大丈夫、十日もすればできているはずです」


 この時に至り、俺はようやく自分が何に巻き込まれそうになっているのかを察知した。姉がこちらを見ないうちに、職員室を立ち去ろうと決意し、忍び足で歩き始める。だが、職員室の扉に手をかけた俺の背に姉の言葉が刺さった。


「一志。ちょっと頼みたい用事があるから廊下で待っててくれ」



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