第2話

「おっはよう!」


 夏休み明け初日。俺にとって最も心安らぐ登校中の静寂は、突如奪われた。奪ったそいつは俺の後ろから声を掛けたわけだが、まぁ振り返る必要などない。声の主は分かりきっているし、あちらも俺が振り返らないことなど想定済みだ。


「また無視して。夏休みが明けたのに相変わらず愛想がないね」


 長月侑希は俺の左に並び歩調を揃えた。


「人はそんな簡単には変わらないだろ。それに俺は無視してるわけじゃない。単に挨拶を省いただけだ」

「そうやって屁理屈言うところも変わってないし」


 長月侑希は俺の幼馴染である。決して性格が悪いわけではないが、何時なんどきでも率直にものを言う性格のために、敵は多い。いわゆるトラブルメーカーだ。また、同時に負けず嫌いでもある。具体例を挙げるとこうだ。


 侑希は小学生の時分に男子生徒と殴り合いをしたことがある。その時は圧倒的な力の差で相手の男子生徒に敗北していたが、侑希はそこで終わらなかった。負けたその日の内に空手道場と合気道道場に入門し、それから週の六日を武道に捧げるようになったのだ。


 今日、その日から約三年の月日が経過しているわけだが、週六日の稽古は現在も続いている。実力は県内の極真空手大会で一位の成績を収めるほどらしい。たかだが殴り合いの喧嘩でそこまで大成できる人間が他にどれほどいようか? いや、そうはいないはずだ。


「一志は夏休み何やってたの?」


 頬に絆創膏を付けた侑希の顔が、俺の視界に入って来る。髪型は相も変わらずショートカットだ。


「本読んだり勉強したり、いろいろだ」

「どっか遊びに行ったりはしなかったの? ほら、お盆に両親の実家に帰ったりとかさ」

「その両親がいないからな」

「あ、そっか。今どっちもアメリカなんだっけ?」

「夫婦仲良く東海岸で研究者やってるよ」

「へぇ、ごはんとかどうしてるの?」

「俺が作ってる」

「京子さんの分も?」

「いや、姉貴は大学の研究室で遅く…」


 最後まで言わないうちに、それがもう事実ではないことに気づく。


 姉は一月前に大学をクビになったのだ。大学教員時代は二十一時より前に帰ってくることがなかった姉が、今は四六時中家にいる。そのため、ここ最近の俺は姉の分の夕飯も作っているのだ。


「どうしたの?」


 急に黙ったせいか、侑希が気にかけてくる。


「いや、なんでもない。姉貴の分も俺が作ってる。で、そっちはどうだったんだよ」

「私? うーん、特別なことは何も。いつも通り毎日稽古だね。別にどこかに遊びに行ったりもしなかったし」


 中学生が夏休み中も毎日稽古か……。何が悲しくてそんな職業武道家のような生活をしているのか。そんな思いが口を衝いて出る。


「相変わらず変わってるな、お前」

「そう? 別にそんなことないと思うけど」


 まぁ、本人がそう思っているのならそれでいい。


 住宅街を抜けると、西央中学の校舎が見えた。横断歩道を渡り、学校全体を取り囲む金網に沿って、歩道を歩いていく。


 校門が数十メートル先に見えている時のこと、隣を歩く侑希が唐突に立ち止まった。何事かとそちらへ視線を向ける。


「どうした?」


 侑希は金網の方へと顔を向けている。


「あれ」言いながら金網の向こうを指さす。その先には西央中学のグラウンドが広がっている。


「グラウンドがどうしたんだ?」

「違う。体育館」

 

 ああ、そっちか、と思う。俺はグラウンドの奥にある体育館に目の焦点を合わせた。途端に声をあげる。


「なんだあれ?」


 外階段あたりに複数、人の姿がある。二人の男子生徒が一人の男子生徒を壁に追い込んでいる、ように見えなくもない。


「カツアゲだ」

「え?」


 侑希の物騒な言葉に俺は目を細めた。遠くの人影を凝視する。だが、彼らがカツアゲをしているかどうかはおろか、動いているかどうかさえハッキリとしない。ちなみに俺の視力はそんなに悪い方ではない。


「お前、あいつらが何やってるのか見えるのか?」

「うん。お札渡してる」


 どんな視力をしているんだ……。まぁ、それはそれとして、もし、カツアゲが行われているというのであれば、教員くらいは呼ばないといけないだろう。


 俺は体育館の方を見ながら口を開いた。


「侑希、誰か呼んできてくれ。俺はここで見張ってるから」

「……」


 返事がない。不思議に思い、侑希の方へ目を向けると、そこに人の姿はなかった。人間が唐突に消えたことに多少のパニックを覚えた直後、上空で金網の軋む音が鳴った。反射的に上を向くと、金網にまたがった侑希がいる。まさか……と思い、慌てて声をかける。


「おい、ちよっと待て」

「なに?」


 金網の上にまたがったまま、侑希がこちらを向く。


「助けにいくつもりか?」

「当然、見れば分かるでしょ」


 次の瞬間、侑希は金網から飛び降り、体育館に向かってグラウンドを駆け出した。


「おいっ! ちょっと待てって! 危ないだろ!」


 俺は侑希を止めようと叫んだ。だが、侑希は振り返ることもなく、「大丈夫!」と手を挙げて叫び、そのまま体育館へとダッシュしていく。


 大丈夫なわけがない。喧嘩にでもなれば怪我をすることになるではないか、主にあの男子生徒たちが…。


 刹那の逡巡の後、俺もまた金網をよじ登った。それから向こう側へ飛び降り、侑希を止めるべくグラウンドをダッシュする。


 しかし、走れども走れども、背中は小さくなるばかりだった。もはや、同年代の女子よりも速く走ることのできなくなった、鈍りきった身体を呪う。幾ばくもしないうち、侑希が男子生徒たちの近くで足を止めたのが、遠くに見えた。


 ああ、面倒なことになりそうだ……。そう思いつつ、引き返すわけにもいかず、体育館へと走っていく。


 案の定、俺が外階段の近くまで来た時には、すでに場は一触即発の状態となっていた。侑希が二人の男と睨みあっている。目の細いスポーツ刈りと、オーバルの眼鏡をかけた秀才風の男。どちらにも見覚えがない。恐らくは他学年の生徒だろう。


 もし、侑希があの生徒たちと殴り合うようなことになれば、恐らく二人が病院に搬送、一人が警察に連れていかれることになるはずだ。それだけは断じて防がねばならない。俺は走るスピードを上げた。


「侑希、ちょっと落ち着け」


 一団のすぐ側まで来ると、息も絶え絶えに言う。


「一志。やっぱりこの二人カツアゲしてた」


 侑希が俺の方を見ずに言う。その言葉に反応して秀才風の男が口を開いた。


「俺たちは遊んでるだけだ」

「嘘つかないで。じゃあなんでこんなに怯えてるのよ」


 侑希が追い込まれていたであろう男子生徒を指さす。俺の視線は自然、その男子生徒の顔へと移った。縁なしの丸目がねをかけた顔が視界に入る。なるほど、たしかに顔が引きつっている。


「証拠でもあるのか?」

「ない。でもちゃんと見てたんだから」


 俺は慌てて口を挟んだ。


「おいちょっと待て侑希。取りあえず落ち着け。金の貸し借りかもしれないだろ」

「一志はちょっと黙ってて」


 ダメだ、まるで聞いていない。


「おい、なんでもいいけどよ」と、今度はスポーツ刈りが口を開いた。

「お前ら早く帰った方が身のためだぞ」挑発するような笑みを浮かべて言う。


 恐らく、それが侑希には気にくわなかったのだろう。


「よし決めた、殴る」


 侑希は淡々とした口調でそう宣言するや、空手か合気道かはわからないが、とにかく素人でも十分に戦闘用のものと分かる構えになった。経験上、こうなるともう説得のしようがない。かくなるうえは俺が身体を張って侑希を止めるしかない。多分、怪我をすることになるが……。


 そう、自らの犠牲を覚悟した時、視界の端に人の姿が映った。


 姉だった。


 姉は校舎の中庭に植えられた木を触り、しげしげと樹皮を眺めている。そこでようやく思い出す。今日から姉がここの教員だということを。


 同時にひとつの案が浮かんだ。はなはだ不愉快ではあるが、実行すれば立ちどころに問題が解決する案が。


 一瞬俊巡したが、もう迷っている場合ではないと判断し、実行に移す。


「江崎先生!」


 俺は大声で叫んだ。姉がこちらへと身体の正面を向ける。侑希や男子生徒たちの視線も一斉に姉の方へと向いた。


「江崎先生! こっちに来てください」


 何のことはない。近くにいる教員を呼ぶという古典的でありきたりな手法だ。もし、この二人にやましいところがあれば、今すぐにでも逃げ出すはずだ。


 案の定、姉がこちらへ向かって歩いてくるのを確認するや、男子生徒二人は顔を見合わせ、それからそそくさとその場から撤退し始めた。秀才風が俺をギロリと睨み、それから二人は姉の来た方向とは反対側へと歩いていく。


 俺の口から一安心の溜息が出た。追い込まれていた方の男子生徒を見る。名前や出身校は知らないが、縁なしの丸メガネと華奢な体つきには見覚えがある。たしか、前に見かけたのは一年五組の教室だ。


「お前、たしか五組のやつだよな? どうしたんだよこんなところで」


 男子生徒は伏し目がちになり、「……なんでもないよ」と答えた。


「なんでもないわけないだろ。あいつらにカツアゲでもされてたんじゃないのか?」

「……」


 その時のことだ。「どうしたんだ?」と姉の声が割って入ってきた。俺は声のする方へと顔を向けた。何はともあれ、呼んだ以上は最低限の説明を述べ、礼を言っておくのが筋だ。だが、俺よりも先に侑希が口を開いた。


「やっぱり京子さんだ!」

「ん?」

「私です! 侑希です!」


 姉はようやく思い出したという具合に、「おお、侑希か。久しぶりだな」と応じた。


「最近遊びに来ないからわからなかった」

「こんなところでどうしたんですか?」


 姉は「いや、実はな」と、今日からここの教員になることや、その経緯を話し始めた。


 二人の会話は長くなりそうだったので、俺は先に丸メガネの男子生徒に話を訊くことにした。だが、視線をそちらへ向けた時には、もうそこに人の姿はなかった。

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