第26話 7日目②
俺に渡されたのは一本のナイフとアサヒの身体。どうするかは決まっている。この場から二人で逃げだすのだ。アサヒの正体がなんだっていい。警察署に駆け込むことが出来れば俺達の勝利だ。
「アサヒ。お前、よくも騙してくれたな。俺の童貞、どうしてくれんだよ。返してくれよ」
アサヒの胸倉を掴んで顔を近づける。アサヒも俺の意図を察したようだ。周りの人に聞こえない位の小声で「おもちゃのチャチャチャ」と言ってくる。
一瞬、何の事なのか分からなかった。こんな時にふざけている場合ではない。本当に服を切り裂いてやろうかと思った瞬間、アサヒとの思い出が電撃のように脳内に蘇る。
家電量販店での転売用のプラスタの調達の日の事だ。ムキムキの店員が来たら転売対策が厳しい日なので撤退する。撤退の合図は『おもちゃのチャチャチャ』。
今日ここで歌うと何が起こるのかは分からないが、アサヒを信じる他ないのだ。
「皆さん。良い事を思いつきました。この糞ビッチを殺すなんて勿体ない。俺だって刑務所に入るなら刑期は短い方がいい。こいつにはもっとおあつらえ向きの復讐があります」
若者が粋がっている。そういう目で周囲の人間が見てくる。それでよい。全力で俺の演技に騙されてくれ。
「歌を歌いましょう。子供向けの歌がいい。俺は皆の歌を聞きながらこいつを犯します。そうすれば、こいつは将来、自分の子供が何の気なしに歌う童謡を聞く度に今日の事を思い出すんです。そうだ! 『おもちゃのチャチャチャ』にしましょう」
おっさん達が歓声を上げる。会長もお気に召したようだ。
「じゃ、お願いしますよ。せーの!」
ヤクザのおっさんが低い声で『おもちゃのチャチャチャ』を一斉に歌い始めた。傍から見れば異様な光景だ。四十、五十の強面のおっさんが、これからここで起こる事に期待を寄せ、股間を膨らませ、ニヤニヤしながら『おもちゃのチャチャチャ』を歌っている。
アサヒという少女の身体と心に目いっぱいの傷をつけてやろうという悪意が一斉に向かってくるようだ。ここからどうなるのか俺は知らない。全くの未知の状態で手が震える。
ワンフレーズ目で、バン、と大きな音が鳴った。窓が割れ、すぐに事務所の部屋の中に煙が立ち込める。何が起こったのか分からずに立ち尽くしていると、アサヒが叫ぶ。
「ナイフ! 私の手!」
アサヒの声で催眠が解けるように、ハッとする。今がチャンスなのだ。アサヒの両手を一つに繋ぎとめていた結束バンドを切り離す。そのままアサヒの手を取り、煙が立ち込める事務所の中を全力疾走して出口を目指す。
アサヒが出口にいる監視役を突き飛ばす。アサヒは格闘術の心得があると言っていた。こんなところで使うとは練習しているときは思いもしなかっただろう。過去に戻ることがあるなら、幼少期のアサヒに武道の道を諦めるな、と言っておかないと寿命が大きく変わりそうだ。
ドアを開けて外に出た。アサヒと一緒に一階に続く階段に向けて走る。だが、足に何かが引っ掛かった。自分の脚だ。足をもつれさせて走っていた勢いのまま前のめりに転げる。
アサヒが気づいて俺を起こそうとするが、後ろから気合のこもった声が聞こえた。振り向くと、大山さんがドスを構えてこちらに突進してきていた。その目は真っすぐにアサヒを見つめている。
俺は咄嗟にナイフを構える。世界がスローモーションに変わる。
不意にトロッコ問題を思い出した。暴走するトロッコの線路の先には五人の人がいる。そのまま放置すれば五人の人とトロッコが衝突して五人分の命が奪われる。一方、曲がるように舵を切ればその五人は助かる。だが、曲がった先にも人はいる。こちらは一人。どちらの命を優先すべきか、という倫理の問題だ。
このまま俺が動かなければアサヒは大山さんに殺される。俺の愛する人が、目の前で溢れ出る血を見ながら死んでいく様を見る事になる。
一方、俺が動けば俺と大山さんで相討ちになる。俺の持ったナイフが大山さんに突き刺さり、大山さんのドスは俺に突き刺さる。人生の恩人、ここまで俺を見守ってくれた恩人に牙を剝く。
アサヒの命、一方は、俺と大山さんの命。天秤はあっという間に傾いた。
俺はアサヒを突き飛ばして、よろめきながら大山さんに向かっていく。大山さんは俺を避けようとしたのか、左側にずれた。それが運の尽きだった。闇雲に構えた俺のナイフは大山さんの左胸に突き刺さった。あばら骨の感覚もないくらい、一気に深くまで入っていった。
その感覚と前後して、俺の左腕に痛みが走る。これまでに感じたことがないほどの鋭い痛み。「グぅ」と声が漏れる。俺は死ぬのではないか。そう思うほど痛い。だが、痛みはジンジンと増していくばかりで一向に引かない。いっそ痛みで意識を失わせてほしい。
だが、目の前にいる大山さんの苦しみ方は俺の比ではなかった。苦悶という言葉がぴったりなほど顔を歪め、脂汗を流しながら俺の方を見てくる。
「そいつと……真っ当に……生きるんだぞ」
大山さんの最後の言葉は俺への激励だった。大山さんは最後の最後まで俺の事を思ってくれていた。だが、緊張のあまり声が出ない。返事が出来ない。大山さんが逝ってしまう前に返事をしなければ。それでも焦れば焦るほど口が動かなくなる。
大山さんは血まみれの手で俺の顔を触ると、そのまま倒れた。いくら揺らしても反応しない。酒を飲みすぎて店で寝ていた時もこんな顔だった。その時との違いは、イビキをかいているかいないかだけだ。それなのに、もう俺の声は届かなくなったのだと気づいてしまった。
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