第53話 『ぜんぜん、気づかなかったの?』 詩を書くことは、歌う如く。パンダの挑戦⑲

「残念ながら、人間は望むものを望むんだよ」

『マイク』アンドリュー・ノリス



★★★

『ぜんぜん、気づかなかったの?』


バーのカウンターに座った瞬間から。

彼女の唇は「彼」のことしか話さない。

8歳年下の彼。

1年越しの付き合いになる、彼。

彼女に夢中の、彼。


仕事のことも言わず、こちらのことも聞かずに

彼女の舌は、タイプを打つように彼のことだけを語り続ける。


『彼、毎日メッセージをくれるの』

『彼、時間を作って旅行に行こうっていうの』

『彼、先週は素敵なホテルを取ってくれて、ゆっくり1日過ごしたの』


私は黙って話を聞く。

彼女の舌が、少しでも止まればいいと思いながら

彼女のために、止まればいいと思いながら。


2時間、話しつづけて私たちは別れる。

冷たい秋の夜風のすきまで

私はせつなく思う。


いつから、彼女は彼のことばかり話すようになったんだろう。

付き合いはじめて、3カ月のころ?

クリスマスとお正月に、些細なきっかけでケンカした後から?

それとも、もっと前からだっただろうか。


本当に幸せな恋をしている女は、

恋について声高に叫ばない。

彼がどれほど優しくて、どれほど愛してくれるか。

叫びたくなるほど、不安になることもない。


あのひとは、あたしのものなの。

だれも手を出さないで。

そう言わずにいられないほど

彼女は不安だ。


いつか。

風がやむ。

いつか。

そう思って、私は彼女の、10歳になる娘の横顔を思い出す。

やわらかくはかない、10歳の少女のほほのラインを

思い出す。




★★★

秋は。

切ないことが、たくさん起きるようです。

少し冷たくなった風が。

少し意地悪なことを持ってくるように。


あのとき。

10歳の少女と、ネンは。同じ年でした。


今夜は少し、古いことを思い出しました。

夜寒が続きます。

あたたかい場所で、お過ごしください。


また、明日の夜。ここでお会いしましょう。

パンダの店は、開いております。


おやすみなさい。

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