小舟と鳥と
海の裏手の森林に足を向けた。この狭い町で、涼が逃げ込める場所なんて限られている。痩せた木々の間を通り過ぎ、茶色くなった雑草の間を進む。奥の簡素な小屋の入り口の暖簾を上げると、予想通り涼はいた。霜を踏むじゃりじゃりという音が聞こえていなかったのか、涼はびくりと震え、咄嗟に傍らの人形の服を握りしめた。顔を出したのが俺だとわかると、ぱっと手を離した。
声をかける前に、涼が少しだけ笑った。
「おばさんに会った?」
そして立ち上がる。
「心配かけたら悪いよね。ありがとう、探してくれて」
そのまま出て行こうとするので、俺は咄嗟に手首をつかんだ。
「何があったんだよ」
「何でもない。大丈夫だよ」
涼は振り返らない。掴んでいた手を引き寄せて、もう一方の手も掴む。覗き込むと、酷い顔色をしている。
「大丈夫に見えない」
「平気だって」
「平気じゃないだろ」
涼は俯いた。そして溜息のような声で言う。
「なんで、あなたにはわかるんだろうな」
「誰だって見りゃわかる」
「わからない。そもそも、誰も見ない。あなた以外は」
涼は降参したように手から力を抜くと、まっすぐに俺を見た。
「母さんが死んでた」
絶句した。二の句が継げないでいると、涼は感情を押し殺したような声で滔々と話し続ける。
「母さんは僕が8歳の時に僕を置いて出て行った。帰ってこなかったと思ってたけど、帰ってこれなかったんだ。母さんは僕が住んでた隣の県の、森の奥で見つかった。たぶん上の道路から落ちたんだろうって警察の人は言ってた。財布には砂利銭しか残ってなかった。でも、うちは貧乏だったんだ。他の持ち物は僕へのプレゼント。忘れてたけど、母さんが帰ってこなかった日は僕の誕生日だった。仕事が終わって、プレゼントを取りに行った帰り、思ったよりも時間がかかって、母さんは奮発してタクシーに乗ったのかもしれない。他の日ならともかく、その日は僕の誕生日だったから。でも、途中でお金が足りなくなって、その場でタクシーを下ろされた。仕方なく歩いて帰ることにした母さんは、車を避けようとして運悪くガードレールの隙間から落ちたのかも。わからない。全部推測だけどね。違うかもしれない。でも、どうでもいい。母さんはもう生きてない」
涼は瞳を閉じた。俺は涼をそっと抱き寄せた。下手に言葉を挟んではいけないと思った。涼はされるがままで、続ける。
「馬鹿な考えだけど、僕はもう一度母さんに会えると思っていた。どこかのデザイナーとして活躍している母さんにいつか会えるなら、その時に恨み言を言えたらいいなと思ってた。どこかで元気に暮らしているだろうと思ってた。でも、もうとっくの前に死んでしまってた。ちゃんと僕のところに帰って来ようとしてくれてた。ねえ、もし死ななかったら、今も僕のことを好きかな」
問いかけるというよりは自問するように言葉を切って、涼は俺の目を見た。
「……薫さん、僕はあなたが生きてるだけでいいんだ」
突然話の矛先が自分に向いて驚く。
「なんであなたにあんなことをしたのか、自分でもよくわからなかった。でも多分、怒ってたからだ。この町の人はみんなあなたのことを一方面からしか見ない。いい人なのに。僕はあなたのことが好きになった。あなただけが僕の大切にしてるものに気づいてくれた。きっと東京に行ったら、たくさんの人があなたを好きになる。そしたら僕は邪魔者になる。あなたは優しいから、僕を残していくことに罪悪感があるのかもしれない。けど、僕のことを忘れてしまってもいい。もし忘れてしまっても、生きてたらまた会える。その時に思い出してくれたらいい。あなたが幸せに生きてくれたら、僕はそれでいい。」
言葉尻は俺の肩口に消えた。ぎゅうっと背中を抱きしめられる。
「なんだよ、それ……邪魔なわけないだろ」
それ以上の力で抱きしめると、涼の身体が震えた。泣いているのかもしれなかった。そのまま髪を撫でる。柔らかい、子供みたいな髪だった。ふいに、俺も泣いてしまいそうになる。大人びた態度にどこか幼さが残るのは、ずっと母親に会えるのを待っていたせいなのかもしれない。その母親が亡くなっていた。誰にも弔われずに。いつもの冷静さに隠していた気持ちは、こんなにも素直だ。そしてその素直な心のまま、俺の傍にいてくれた。俺に触れた。誰の意見にも流されず、自分の意志で。
「僕は今だけでいい。あなたが色んな人と出会って、その中から僕を選んでくれる確証なんてない。今こうして傍にいられるだけで充分なんだ。だからどうか、僕を重りに思わないで」
「嫌だ」
涼は顔を上げた。俺はわざと仏頂面をする。
「だいたいなんでお前が振られる前提なんだよ。俺が振られる可能性は」
「ないよ、そんなの」
「将来のことはわからないんだろ?」
「……そうだけど」
「俺はお前みたいに高尚じゃない。他人に譲りたくない。だから傍にいてほしいし約束が欲しい。信じてくれなくてもいい、勝手に待つから。未来の俺はあてにならないかもしれないけど、今の俺のことだけでも、信じてくれよ」
涼は顔を背けた。そんなに信用ならないんだろうかと少し傷ついたが、よく見ると耳が赤くなっている。
「返事は?」
「……する」
「何?」
「……混乱する」
再び顔を上げた涼は、困ったような、睨むような目で俺を見上げる。
「母さんが死んでて悲しかった。けど薫さんに嬉しいことを言われた。苦しい、気持ちがぐちゃぐちゃだ」
確かに、訃報に接しているときに言うことではなかったかもしれない。でも話をこの方向に向けたのは涼だし、そもそも俺はずっと前から涼に気持ちをぐちゃぐちゃにされているのだ。
涼の頬を包んでキスをした。顔を離すと、呆然として真っ赤になった顔が見えて、思わず少し笑った。そしてもう一度抱き寄せる。高くなった体温が心地よかった。
「俺は涼が好きだよ」
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