小舟と鳥と
一つ目の失敗は軽率に声をかけたことだし、二つ目の失敗は、その体温を引き寄せてしまったことだと思う。
涼は不思議な奴だった。幼く見えるが、さほど背は低くない。あどけない顔のパーツの中で、目だけが特出して大人びていた。
一学年下の転校生は、ひょんなことから俺に懐いた。
「迷惑なら言って」
初めて屋上に現れた昼休み、奴は短く言って俺の向かい側に腰を下ろした。
迷惑でなかったと言ったら、噓になる。折角息を潜めるように淡々と生活することにも慣れてきたのに、日常を掻きまわされるようで、最初は戸惑った。それでも突っぱねられなかったのは、前科があるからだ。
その日、いつも放課後時間を潰している砂浜は嵐で荒れていた。雨が降ってきてもなんとなく動けず、濡れ鼠になりながら雨を食って巨大化していく波を見た。雨に穿たれて黒くなった浜を、波は大口を開けて飲み込んでいく。俺のことも食うだろうかと、ふと思った。足元に波が迫ってくる。まだ大丈夫。もう少し。そろそろやばいと思ったが、足は一向に動かなかった。
ふと気配を感じて振り返ると、人が立っていた。一風変わった転校生。いつもは俺の後ろに突っ立ったまま話をするのに、その日は初めて隣に座った。当たり前だが奴も雨に濡れていて、その姿は不思議と暗い雨雲に映えた。こいつには妖怪じみたところがある。人魚だの、雪女だの、そういう類の艶めかしい空気。いつものポーカーフェイスが、眉間に皺を寄せて真面目な顔をしているのが、ちょっと笑えた。その妙な顔のまま、奴は俺に好きだと言った。からかわれているのかと思ったが、男は真剣だった。白い手が伸びてくる。ぬいぐるみでもするような、やわやわした抱擁をされた。
変な奴。首も手足もない胴体だけの人形を、大切にしている奴。たいして知りもしない男に、大雨の中告白してくるような、空気の読めない奴。不思議と、気持ち悪いと思えなかった。気がついたら身体を引き寄せていた。濡れたシャツ越しにじわりと体温が滲み、そこでようやく、肌がずいぶん冷えていたことに気付いた。一瞬、このまま波に飲まれてしまおうかと馬鹿なことを考えたが、奴の手を引き上げて浜から逃げた。人のことをとやかく言えない。俺も大概、変わっている。
涼は昼休みと放課後、特に何をするでもなく俺の傍に来た。友達も順調にできているようだったのに、俺なんかに構うものだから、奴は早々にクラスの奴らからハブられていた。
「あなたが気にすることじゃないよ」
奴は昼食のパンを行儀よく齧りながら言う。奴は、背中がむず痒くなるような二人称で俺を呼ぶ。
「爪はじきにされるのは慣れてる。多分、あなたより」
複雑な家庭環境らしい奴が言うと妙な説得力があった。
出会ったばかりの涼は無口で、ネットのワード検索のような二言三言で会話を終了させたものだが、最近はよく喋る。涼は意外と考え方が柔軟で、頑固なところがなかった。優柔不断というのではなく、意見があればはっきり言う。ただし我を通すのではなくて、相手の意見を取り込んで、考え方を変えるのだ。そしてあまり動じない。常に冷静に、物事を俯瞰している。
それなのに、子どもっぽい仕草をしたりする。笑うと童顔がさらに幼くなり、艶めかしさのようなものはパッと掻き消える。次の瞬間にはいつものポーカーフェイスに戻っている。混乱する。老成してるのか、幼いのか、どっちかにしてほしい。そのくせ、瞳の澄んだ深い色に引き込まれる。その不安定さに、目が離せなくなる。まずいな、と思った。深い沼に、もうすでに腰まで浸かっている。
涼は何がしたいのだろう。告白の返事をするタイミングを逃してしまったが、待っているそぶりもない。構わず屋上や浜にやってくる。とりとめのない話をする。それだけだ。距離を保ったままで、あの日のように触れ合ったこともない。俺はあと数か月で卒業する。その後はどうなる?
「お前、卒業したらどうするんだ」
「働くよ」
唐突な質問だったにも関わらず、涼は間髪入れず簡潔に答えた。
「どこで」
「さあ。働かしてもらえるところ」
「どこでもいいのか?やりたい仕事は」
「ないよ。生活できればいい」
これで会話は終了とばかり、返答はにべもない。俺は咳払いをした。
「東京に来ないか」
そう切り出すのに、少なからず緊張した。告白の返事のつもりだった。
「推薦、通ったんだ。東京の大学に行く。その……お前もそっちで就職口探したら?」
頭を掻きながら奴の顔を窺うと、表情は変わっていなかった。少しくらいは喜んでくれそうな気がしていたので、拍子抜けした。
「……将来のことは、わからないよ。だから約束しない」
「そうか。まあ、まだ一年あるしな」
ゆっくり考えればいい。そう言った声に落胆が滲まないよう気をつけた。涼は返事をしなかった。
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