海鳴り

絵空こそら

海鳴り

 曇天が海を覆っていた。海育ちでない僕でもわかる。もうすぐ嵐が来るのだ。


 でも僕は砂浜に座り込んだまま動けなかった。「かあさん」を置いていくわけにはいかない。僕はかあさんを抱きかかえたまま、荒れる波をぼんやり見つめていた。


「何してんの?」


 空模様に似つかわしくない声が上から降ってきて、僕はゆっくり空を仰いだ。背の高い男が覗き込み、僕の顔に影を落とした。僕が何も言わないでいると、彼はかあさんに気づいたようで、


「それ、宝物?」


ときいた。


 そのことに僕はびっくりしたが、やはり黙っていた。


 男は不思議そうな顔で僕を見下ろした。雨が降ってきて、彼の影に入っていない場所が湿っていく。僕と目を合わせたまま、彼は少し笑った。


「いい場所知ってる。濡れると嫌だろ」


 彼は顔を上げると、背を向けて歩いていく。僕はおもむろに立ち上がって、グレーから黒に変色し始めた砂浜を歩き出した。



 男の後をついていくと、鬱蒼とした森の中に入った。草の背が高く、雨に濡れた土の匂いが鼻をつく。簡素なサンダルと足の間に水分の増した泥が流れていった。


 少し視界の開けた場所に、山小屋風のテントがあった。男が入り口にかけてあった布を捲ると、中は薄暗く、汚れたフリスビーや座布団、トランプが散らばっていた。


「今は使ってないから」


 僕はその小屋の中にかあさんをそっと押し込めた。「また来るからね」と胸の内で呟く。


 その様子を男は黙って見ていた。


 雨はずいぶん強くなり、ざばざばという音が耳の近くに聞こえる。雨粒に叩かれるたび、背の高い草がその身を跳ねさせた。男はひとつくしゃみをした。


「風邪ひきそう。そろそろ行こうぜ」


 彼はそう言い、踵を返す。僕は小屋の入り口に、すでに濡れそぼった布をかけると、その場所を後にした。



 男を再び目にしたのは、学校の屋上だった。


 次の日は打って変わったような快晴で、男は青空のもと、つまらなさそうにパンを齧っていた。僕は教室から理科室へ移動するところで、廊下の窓からその姿を発見した。


 昨日の印象からすると、和気あいあいと食卓を囲む仲間がいそうな気がしたので、孤独に飯を食っていることに違和感があった。


「夜振」


 クラスメイトが僕を呼ぶ。転校してきてから、何かと世話を焼いてくれている奴だ。


「何見てんの?ってああ、あの人」


 彼は少し蔑むような目をした。


「あんま関わらんほうがいいぜ」



 放課後森へ赴くと、昨日とは違う、土が蒸されたような匂いが充満していた。生乾きの布を上げると、かあさんは濡れずにちゃんとそこにいた。眩しい陽光が彼女のフリルに降り注いでいる。


 僕は習慣で声をかける。


「ただいま」



 かあさんは、トルソーだ。デザイナー志望だった母が家を空けがちだったので、いつも作り終わった衣装をかけておく顔も腕も足もない人形に、かあさんと名前を付けた。母はシングルマザーだった。デザイナーの夢を諦めて、必死に家計をやりくりしていた。疲れて寝ているのを起こすのは、こどもながらに気が引けたので、僕はかあさんにばかり話しかけていた。だから母と話した記憶があまりない。


 ある時、母は家に帰らなくなった。僕はかあさんの華美な裾を握って数日を待った。親戚から電話がかかってきて、母が帰ってこないことを話すと、知らない大人が家を訪ねてきた。



 今は遠い親戚の家にいる。彼らは優しい。膜を張ったような距離感で、腫物に触るように僕に接する。衣食住を保証してもらっている彼らには、感謝している。だから、迷惑をかけたくはない。ほとんど荷物のない僕が唯一連れていた胴体だけの人形を、気味悪がっても無理はない。それを勝手に捨てられても、僕は彼らを憎めない。



 帰り道であの男を見かけた。昨日よりも少し遠い砂浜に腰かけて、ぼーっと海を見ている。僕は近づいていき、その後ろに立った。砂を踏む音に気付いた男は振り返ると、笑顔を浮かべた。


「なんで、宝物だと思ったの」


 そう聞いていた。


 男は「えっ」と言って首を捻ると、


「宝物っぽかったから?」


と言いさらに首を傾けた。


「こわく」


「ん?」


「こわくなかった?」


「なんで」


「ふつう首のない人形を抱きしめている人間がいたら近寄らない」


 男はじっと僕の目を見て、噴き出した。


「言い方によるよな。確かにそう聞くと怖いけど、昨日のお前は怖いってより、途方に暮れてる感じだったよ」



 男は朗らかだ。ますます僕はわからなくなる。なぜこの男は学校でいつも一人なのだろうと、窓から見える彼の背中を眺めつつ思う。


 海で会うと、世間話をする。今日は波があれだとか、濡れてない場所に座ったと思ったのに気づいたらズボンが濡れていたとか、今日の夜は蒸しそうだとか、そんなことばかりだ。男は僕に干渉しようとしない。名前さえも言わない。ならばなぜあの時声をかけたんだと僕も聞かないからわからない。何もきかないでいると男は漠然とした時間を堪えるみたいに波に目をやる。僕の足元ではただ、砂が鳴る。



「また見てんのかよ」


 学級委員の西岡が呆れた声を出す。


「あの人に興味があんの?やめとけって」


「なんで」


 西岡は声を潜めて、困ったように、でも少し優越感の滲んだ声で言う。


「“これ”だから」


 彼は掌を反らして、頬の傍に近づけるポーズをした。


「去年問題起こしたらしいよ。相手は転校したっぽい」


 西岡の唇に張り付いた笑いを見ながら、僕はふと思い出したように聞いていた。


「……雨の日にさ」


「ん?」


「雨の日に、首のない人形もった人がいたら、お前、どうする」


 彼はその場面を想像して鳥肌が立ったのか、自分の肩をさすった。


「ばっかお前、いきなり怖え話すんなよ。おれホラー苦手なんだよ」


「その人が僕だったら、どうする」


「は」


 西岡の表情が引き攣る。僕はすこし笑った。


「冗談だよ」



 暗い雲が空を覆っている。荒れた天気になるとわかっていながら、海に足を向ける。途中で雨が降ってきて、制服のシャツに点々としみをつくった。


 男はやはり砂浜に座っていた。黒々と渦を巻く波が、彼の足元に迫っている。ぼたぼたと雨粒が、砂に深い色の穴をあけている。


 雨の音で気づかなかったのか、彼は僕が後ろに立った気配でようやく振り向いた。


「よく会うな」


 僕は黙って彼を見下ろした。


「風邪ひくぞ。帰れ」


 彼は強い口調で言うが、表情は穏やかだった。彼の顔を雨が伝っていく。


 男の隣に腰を下ろすと、彼はすこし驚いたようだった。


「僕はあんたの名前もしらない」


 僕は呟いた。


「知りたいって言ったら、怖い」


「別に怖くはないけど」


 男は曖昧に笑う。


「じゃあ好きっていったら」


 彼の表情が温度をなくす。


「からかってるのか」


「僕はあなたのことが知りたい」


 僕は彼の強い瞳から目を逸らさないよう、踏ん張った。波の飛沫が顔にかかる。雨とは違う細かい粒子。


 彼は僕の目をじっと見ていたが、やがて諦めたように顔を逸らした。短い髪の間から、雨が顔を流れていく。


「ここは都会とは違うから、俺みたいなのに構うやつはつまはじきにされるぞ。お前こそ怖くないのか」


「言い方の問題だ」


 彼は視線を戻した。睫毛の先で雨粒が揺れている。


「あなたといられるなら、怖くないよ」


 僕は手を伸ばした。手の甲の上で、雨粒が跳ねる。彼の肩にそっと腕を回すと、濡れたシャツの奥から温度が伝わった。汗と雨と、海の混じった匂いがする。彼の小さく震える手が、僕の背中に触れた。


 ごうごうと海鳴りが、浜に響いている。


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