第9話

 石段を下りて、もう一度自転車に跨る。彼を後ろに乗せると、意外と素直に手がお腹にまわった。私はペダルを踏みこんだ。


 一番眺めが良い場所は、坂道をずっと登ったところにある。前にみんなで照くんの朝を祝おうとしていた場所だ。坂道を、ふたり分の体重を乗せて進むのはつらい。もし彼が石になったら、は考えないことにする。きっとなるようになるのだ。


「朝子さん、僕はね」


 彼は背中で小さく呟いた。


「一度夜の街を見に行ったことがあります。居酒屋とか、ラーメン屋とか、スナックとか、色んな店が開いていました。夜は僕だけが起きてるわけじゃないんだって思ったけど、違った。みんなちゃんと昼の時間も持っていました。夜しか持っていないのは僕だけなのだと気づきました。その時が一番、怖かった」


「わかるよ」


 わたしは歯を食いしばった。きつい。息が苦しくて、脚の全体に酸素がいきわたっていないような気がした。それでもわたしは登らなければならないと思った。彼に朝を見せてあげたいと思った。


「もし、朝、目が覚めて、みんなのところに行っても、僕の居場所はないんじゃないかと思ったんです」


「そんなわけ、ないでしょ」


 大きく踏み込む。少しだけ空が白んでいる。もう少しで夜が明ける。その前に着け。脚に力をこめる。


「わたしだって完璧余所者だったけど、こども食堂の席、みんなが横に詰めてつくってくれたじゃない。それと同じことだよ。なんでわたしにはしてくれて、照くんにしてくれないと思うの?」


 空がいよいよ明るくなってきた。後ろから焦った照くんの声がする。


「そろそろ夜明けだ。離れなきゃ、朝子さんまで石になってしまう」


 わたしは構わず自転車をこぎ続けた。


 坂道を登りきる。その高台からは町が一望できる。その先にある水平線までも。


 そして、見慣れた人たちの顔が見えた。


「あ!照くん、やっと来た!」


「照!」


「照くん!」


 町のひとたちが、なぜかその高台に大集合していた。


「みんな、どうして……」


「いやあ、なんとなく」


「今日こそは来るんじゃないかなと思ってね、毎日待ってたの」


「待ちくたびれたぜ。ふてくされて出てこなくなっちゃうんだもんな、こいつ」


「一番最初に照さまに、おはようを言いたかったの!」


 みんな口々に照くんに話しかけだす。まるで夜のこども食堂のときのように。


 照くんはみんなに揉みくちゃにされて、泣き出しそうな顔で笑っていた。そして、満足そうに瞳を閉じる。石になる準備をしているのだ。朝日の玉は境内に落としてきてしまった。


 「待った」


 ヘルメットをかぶった神主さんが、袱紗を取り出して、照くんの前に差し出す。


「忘れ物」


 照くんが包みをひらくと、きらきら光る玉が出てきた。朝日の玉だ。


「これって……」


 わたしが呟くと、神主さんはウィンクしてみせた。


 照くんは、それを掌に載せて、盃を飲み干すように口をつけた。みんな、誕生日の子がケーキのろうそくを吹き消すときのようにそれを見守った。


 東の空から赤い光が差す。家が、雲が、木々が、一斉に目覚めるかのように、その光は町を照らす。


 照くんは目を開けた。生まれたての大きな瞳に、朝日と、のぞき込むみんなの顔が映っている。彼ははっと息をのんだ。


「みんな」


 ようやく口を開くと、彼はきっと今までずっと言いたかった言葉を言った。


「おはよう」



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