第2話
照くんと出会ったのは一か月前。満月の夜だった。
その頃のわたしは就職を機に引っ越し、覚える仕事がいっぱいでてんてこ舞い、朝は早いのに帰りは遅くなることも多くて、疲労困憊の毎日だった。そんな時、通勤用の自転車がパンクした。
片道二十分かかる通勤時間は、自転車を押して歩くとなるとその倍以上かかった。
いつもするすると通り抜けていく景色は、よく見ると全然違う表情を持っている。特に神社の前は、黒々と茂っている植物の中から何かが飛び出してきそうで怖かった。でも、少し進んだところにある石段は月の光で明るく照らされている。そこまで一気に通り過ぎてしまおう、と歩を速めた時、後ろから引っ張られる感覚があった。驚いて振り返ると、そこにいたのは人ではなくて、蔦だった。黒い茂みから糸のように垂れた蔦が、自転車の後輪に絡まっている。しゃがんで引き剥がそうとしても、複雑に絡み合ったそれはなかなか離れてくれない。にっちもさっちもいかなくなって、能天気と名高いわたしでも、さすがにため息が出た。
でも、へこたれてはいられない。明日も早いのだから。気合いを入れ直して、もう一度蔦を剥がしにかかると、
「大丈夫ですか?」
という声がした。
声の方向に顔を向けると、石段の下に中学生くらいの男の子がいる。深夜に近い時間に子供がいるのは不自然なのに、その子は驚くほど夜に馴染んでいた。
「自転車が壊れてしまったんですか?」
もう一度呼びかけられて、はっと我に返る。
「わたしは決して、怪しいものでは……!」
「あはは、誰もそんなこと言ってないじゃないですか」
少年は呆れたように笑って、ポケットからスマホを取り出すと、ライトで自転車を照らした。
「蔦が絡まっちゃったんですね。あ、パンクも……」
「きょ、今日はタイヤにまつわる厄日でして」
わたしの意味不明な言動を無視して、彼は「ちょっと持っていてください」とわたしにスマホを預けると、屈んで蔦を解き始めた。あっという間に蔦は植物の群れの中へ帰っていく。わたしは感心してしまった。
「すごい!君、器用ねえ」
尊敬のまなざしを向けると、彼は満更でもなさそうに頬を掻いた。
「まだ結構歩くんですか?よかったら自転車貸しましょうか」
驚きの提案だった。断ったものの、彼は「すぐ戻るから待っていてください」と石段を駆け上がると、ほどなくして帰ってきた。肩に自転車を担いでいる。細身な見た目に反してたくましい子だ。
「ちょっと汚れていますけど、よかったらどうぞ。自転車はまた今度交換しに来てください」
彼は手拭いでハンドルとサドルを丁寧に拭いた。月の下で、オレンジ色のその自転車は自信満々に見えた。
とてもありがたい申し出だったけれど、わたしは少し困惑してしまった。赤の他人に自転車を貸してくれるなんて、親切すぎると思ったのだ。
「どうして見ず知らずの人間に、そこまでしてくれるの?」
少年は瞬きをした。そして考えを巡らすように目を閉じる。
「僕は人と知り合う機会が少ないから、出会えた人には親切にしようと決めているんです。お姉さんはとても疲れているように見えたから、自転車を押して歩くよりは自転車に乗れたほうが、家に早く着いていいかなと思ったんです」
飾り気のない言葉だった。そしてその言葉は、月の光のように柔らかく、胸に着地した。顔を伏せ、もう一度上げた時、わたしは自然と笑うことができていた。
「明日、もっと元気になって、自転車を返しに来ます」
少年はちょっと驚いたような顔をして、笑顔を見せた。
おやすみなさい、と挨拶してからペダルを漕ぎ出す。手を振る彼はなぜだか苦笑いをしていた。暗い街の中で風を切るオレンジ色の車体が、ぴかぴかと光っていた。
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