カノープス
「リューセー!大変大変!」
「マイヤ、そろそろドア取れるぞ」
いつも通り漁師小屋の扉を勢いよく開けると、やっぱり顔を上げないままリューセーが言う。あたしは構わず彼に突進した。
「ユーゴが島に来る!」
このニュースには流石の彼も顔を上げた。
「何!」
あたしは届いたばかりの手紙をリューセーの前に広げた。
『こんにちは、マイヤ。来月から夏休みが始まります。そこで、僕は君の島に行ってみたいと思っています。海外に行くのは初めてだから、少し不安だけど、君に会えたらいいな』
紙面から視線を上げると、リューセーはにやりとした。
「よかったじゃねえか」
「うん!」
あたしは早速手紙を書いた。ユーゴが来てくれるのが嬉しいこと、日付が決まったら教えてほしいこと、会えるのをとても楽しみにしていること……。
当日、あたしは一睡もできなかった。
あれからもう一度手紙のやりとりをして、彼の乗った船が到着する時間に合わせて、船着き場へ迎えに行くことになった。
あたしは一週間くらい前からずっと緊張していた。気の置けない島の人や、一時的に仲良くなってはすぐに帰ってしまう観光客以外の人との接点が今までなかったあたしにとって、家族以外の誰かを待つというのは初めての経験だった。
もし、ユーゴがこの島を気に入らなかったらとか、あたしが手紙のイメージと違うと言われたらとか、もし、もう返事を書いてくれなかったらとか、不安がぐるぐる渦巻いてきて、息苦しくなったほどだ。
でも、あたしはユーゴのことを知っている。10歳の頃から6年間、お互いの拙い言葉で、手紙を交換してきた。あたしは、ユーゴが好きなもの、苦手なものを知っているし、ユーゴもあたしの好き嫌いを知っている。彼が日常を切り取って、あたしに伝えようとしてくれたことも、ちゃんと伝わっている。だから大丈夫。
そう自分に言い聞かせて、手を握り締める。
でも、水平線の向こうから船が姿を現して、徐々に近づいてくると、途端に心臓が砕け散りそうになった。乗っていると速いけれど、到着を待っているときの船の進みはとても遅い。彼が姿を現す前に心臓が爆発しないことを祈りながら、あたしはひたすらにその長い長い時間を待った。
やっと船が船着き場に着いて、乗客が次々と降りてくる。あたしはその一人一人を目で追った。ユーゴが降りてきたのは、最後だった。
彼はつばが前だけついた帽子を被り、白いTシャツに半ズボン、サンダルを履いて、肩から小さなバッグを下げて、スーツケースを引いていた。背はあまり高くなくて、華奢な輪郭が、スーツケースを引く振動とともに揺れる。
「ユーゴ!」
あたしはひっくり返りそうな声で呼んだ。
彼はぱっと顔を上げた。帽子の下の、真黒な瞳と目が合った。リューセーの茶色がかった黒よりも、もっともっと、純粋な黒だった。あたしはいつか送ってくれた海の写真を思い出していた。
彼は手を振った。
「マイヤ!」
ああ、そんな声をしていたんだ、と思った。あたしのイメージの中では、彼は少年の声をしていたから、その低さにびっくりした。でも、少し掠れて落ち着いた声は、妙に似合っていた。
あたしたちは向かい合うと、ぎこちなく笑いあった。文字ばかりでお互いを見ていたから、どんな顔で話せばいいのか、わからないのだ。
「はじめまして、ユーゴ。今日は来てくれてありがとう。案内するから、ついてきて」
あたしは予め決めていたセリフを言った。本当はもっと明るく、大人っぽく言うつもりだったのに、やはりどことなく不自然になってしまう。
「はじめまして、マイヤ。会えて嬉しいよ」
やっぱりユーゴも少し硬い表情をしている。あたしたちは連れ立って歩いた。会話は思いのほか、弾まなかった。
その夜はあたしの家でパーティーをした。フルーツや、とれたての魚で、お皿を盛りつけた。親戚も近所の人も、あたしの文通相手を一目見ようと、わらわら押しかけてきて、思いがけず盛大なパーティーになった。
島の人たちに質問攻めにされるユーゴは困ったように笑って、ひとりずつに返事をしていた。でも、さすがに疲れたのか、途中からは隅のほうでリューセーと話を始めた。言葉が同じだと安心するんだろうな、と思ったけど、なんであたしのところに来てくれないんだろう、と少しもやもやした。ユーゴが会いに来たのは、あたしなのに。
島の人はお酒を飲んで陽気に拍車がかかり、ユーゴのことなどお構いなしに盛り上がっている。あたしは黙々と、食べなれた魚を平らげた。
「ユーゴ」
すっかり泥酔した大人たちが寝てしまうと、あたしは思い切ってユーゴに声をかけた。
「散歩に行かない?」
微笑んでみたものの、やっぱり声は少し上擦ってしまう。
ユーゴは頷いて、あたしについてきた。
「夕食はおいしかった?」
「とても。食べたことないものがたくさんあったけど、どれもおいしかった」
「よかった」
そこで会話は途切れてしまう。波の音と、砂を捌く音だけが響く。
悪い予感があたりそうな気がした。やっぱり、ユーゴがあまり話をしてくれないのは、あたしが手紙のイメージと違ったからなのだろうか。この旅行が終わったら、もう手紙を書いてくれないのかもしれない。そう考えると寂しくて、鼻の奥がツンとした。
「ごめんね」
すると、ユーゴが小さくそう言った。
「実はあんまり話すのが得意じゃないんだ」
ふり返ると、彼はまた、困ったように笑っていた。
「……イメージと違った?」
彼の声は静かだ。砂にみんな吸い込まれてしまいそうなほど。だからあたしは、大きな声で返事をした。
「いいえ」
「本当?」
ユーゴは海を見つめる。ユーゴの生まれた海とは違う海。昼間のきらめきが嘘のように、海は暗く波打っている。
「ここの海はあったかいね。すごく波が透き通っているし、波の音も優しい気がするよ」
「そう?ユーゴの海はどうなの?」
「寒いよ。どうして魚が凍らないんだろうって不思議になるほど。僕も漁師の子なのに、小さい頃は海に近づくのが怖かったな」
「そうなんだ」
手紙には書かれなかったことを、彼はぽつりぽつりと語りだす。
「小さい時、すごく世界が小さく見えたんだ。父も祖父も船乗りで、村の人もだいたいそう。僕は海が怖いのに、きっと僕も将来船乗りになるんだと思った。海はどこまでも続いてるはずでしょ?それなのに、僕の住んでいるところの海は、そこで完結しているみたいに思えた。すごく狭い海だよ。ここでおじいちゃんになるまで生きていくんだろうなって、思っていたんだ。そしたらある時、手紙を拾ったんだ」
あたしははっとした。
「流れ着いたごみのなかに混じってたけど、すぐにごみじゃないとわかった。濡れた手を拭いて、瓶の中から取り出した手紙には、全然知らない世界の文字が書いてあった。本当にびっくりした。完結した世界に、穴をあけられたような気がしたんだ。持ち帰って親に見せたら、英語じゃないかって言われた。だから村に一人しかいない外国人の先生に、英語を教えてもらったんだ」
あたしがリューセーにニホン語を教わったように、彼にも英語の師匠がいたのだ。その共通点に、思わず頬を緩めた。
「あたしも、返事がきたときびっくりした。手紙出したことすら忘れてたから。はしゃいでリューセーのところに持ってって、海にコジンジョウホウ流すな!悪用されたらどうする!って怒られたの」
「あはは。そうだったんだ」
彼は初めて声を上げて笑った。
「僕は逆だったな。手紙を出してしまってから、その可能性に気づいた。とんでもないことをしちゃったんじゃないかと思って不安だったけど、ちゃんとマイヤからの返事が来たんだよ。僕はここに着くまで12時間もかかった。すごいよね。いつもこんな距離と時間をかけて、手紙が届いてたんだ。」
「そうだね。すごい旅だね」
「うん。自分で動けない手紙が届くんだから、動ける自分が来れないことないんじゃないかなって思ったんだ。そういうことを、マイヤの手紙が教えてくれたんだよ」
ユーゴは、しっかりとあたしの目を見て言った。
「そんなこと……」
あたしは言葉に詰まってしまう。最初の手紙なんて、ただ暇だったから遊びで流しただけだった。それなのに感謝されるのは、身の丈に合わないような気がした。
じっと見つめあって照れたのか、ユーゴはふいに視線を空に向けた。そして、ひとつの星を指さす。
「あの星、僕が住んでいるところからだと見えないんだ。ここからだとあんなにはっきり見えるんだね」
今まであまり気にかけたことがなかったその星は、数多の星のなかでもひときわ大きく、赤く光っている。まるで誰かの船旅を照らす、灯りのように見えた。
あたしにとって当たり前の景色は、誰かにとってはとても新鮮なものなのだろう。そしてあたしにとっての当たり前じゃないものは、この海の続く世界中あちこちに散らばっている。あたしの知らない景色はまだまだある。そのことに、胸がどきどきした。
それにしても。あたしはさっきからずっと思っていたことを言った。
「おしゃべりが苦手なんて嘘じゃない」
「え?」
「まるで物語をきいてるみたいだった。ユーゴはお話上手だよ」
「ええ……そんなこと初めて言われた」
薄暗がりの中でもわかるくらい、彼は赤面した。あたしは笑って言った。
「もっと聞かせてよ。あたしの知らないこと、手紙に書ききれなかったこと」
あたしは目を閉じて、ユーゴの故郷の波音に耳を澄ます。きっとそこでは、あたしの知らない星が、今も光っている。
見えない星へ 絵空こそら @hiidurutokorono
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