見えない星へ
絵空こそら
手紙
「たいくつ」
そう呟いた声は転がって、足元で波に洗われている。
あたしは波打ち際に座って、頬杖をついたまま遠くを見ていた。
透明な波は、砂浜から離れるほど空に近いクリアブルーになって、目で追える最果ての色はもっと濃いネイビーだ。どの色も、日の光を反射して、翻る度に輝いている。
あたしは、足首を波につけたまま、砂浜に寝転がった。シーズンが終わると、この浜辺は毎年空っぽになる。学校も夏休みに入ってしまったし、従兄弟たちは漁に出かけてしまった。ひとりぼっちは、退屈。
じりじりと照り付ける太陽を瞼で受けて、熱い砂に髪を押し付ける。生まれた時から一度も止まることなく響く波の音と、風にくすぐられて笑う背の高い葉っぱの声。その間から、へとへとになりながら走っている、バイクのエンジン音がきこえた。
「マイヤー!おまえに郵便!」
砂浜の前の、ちょっとだけ舗装された道路でバイクを止めると、役所のジムが叫んだ。
あたしはぱっと起き上がった。髪についた砂がぱらぱらと落ちる。
郵便!この島には個人宛に郵便が来ること自体とても少ない。まして、あたし宛に来たことは一度もない。一体誰からだろう?
ジムから手渡された封筒は、砂浜の色よりも白かった。エアメール、と書いてあって、差出人は、知らない国の、知らない人。
あたしはちょっと不安になりながらも、どきどきして、その封をちぎった。
『こんにちは、マイヤ。ぼくはアオハタユウゴです。ぼくは10歳です。ニホンに住んでいます。海で、君の手紙を見つけました。君の住んでいるところを調べて、とても遠くから手紙が届いたのだなあとおどろきました。もしよかったら、また返事をください。待っています』
その短い手紙は、たどたどしいアルファベットで、ところどころ間違っていた。でも、ちゃんと意味が伝わった。
そして、読み終えた瞬間、今まで感じたことのないような高揚感が、胸に沸き上がってきた。気づくとあたしは裸足のまま駆けだしていた。
「リューセー!リューセー!」
漁師小屋の扉を乱暴に開けると、リューセーは銛を磨いている手を止めずに顔をしかめた。
「マイヤ、壊すなよ」
「リューセーって、ニホンから来たんでしょ?」
「そうだけど」
近づいて行って、そう聞くと、彼は不愛想に答える。
「ニホン語教えて!」
リューセーは怪訝そうに顔を上げた。
「なんでまた」
あたしは事情を説明した。
二年前の、観光シーズンが終わったころ、やはりあたしは退屈で退屈でどうしようもなく、おばあちゃんが昔やったという遊びをしてみたのだった。手紙を瓶に詰めて、海に流す。海は世界に繋がっているから、遠いところにいる人に届くのだそうだ。波に押し返される瓶を波打ち際で拾っては、めげずに何度も投げ、最終的に波に揺られて遠いところへ旅立ったのを見届けて、あたしはとても興奮していた。それから毎日毎日、誰かからの返事を待っていた。でも二週間もすると待つのに飽きて、学校が始まり、やがて観光シーズンがまたやってきて、すっかり手紙のことを忘れてしまっていた。
そして今日、ついに返事が来たのだ!遠い波間で光る瓶を見送ったときのような興奮が、あたしの胸によみがえっている。
「手紙になんて書いたんだ?」
はしゃいでいるあたしとは対照的に、リューセーは冷ややかにきいた。
「あたしはマイヤです。8歳です。お友達になってくださいって書いて、住所を書いた」
彼はため息をつく。
「あのなあ、個人情報を公共の場に流すなよ」
「コジンジョウホウってなに」
「名前とか、誕生日とか、住所とか、電話番号とか、個人を特定できる情報のこと!悪用されたらどうするんだ。だいたい、返事寄越したやつだって、いいやつとは限らないんだぜ。10歳じゃない、おっさんかもしれない」
あたしは俯いた。火照っていた顔から熱がひいていく。リューセーってなんて意地悪なことをいうんだろう!
あたしの不機嫌な様子に気づいたのか、リューセーは口に咥えていた葉っぱを落とした。そして面倒くさそうにぼりぼりと頭を掻く。
「あー……ま、一回親父さんに見せてみろよ、その手紙。もし返事出していいって言われたら、その時は手紙書くの手伝ってやるからさ」
あたしは黙ってうなずくと、小屋を出た。
漁から帰ってきた父さんにそのことを話すと、リューセーの言ったことはもっともだとたしなめられた。あたしたちの住んでいる島は、ほとんどが顔見知りだ。でも、ここは世界のほんの一部でしかなくて、広い世界のなかには、残念ながら悪い人もたくさんいる。人を信じるのはいいことだけれど、性格も何も知らないひとを最初から信用してはいけない。傷つけないよう気をつけるのと同じように、傷つけられないよう注意することも大事なのだ。
次の日の朝早く、漁師小屋に顔を出すと、もうリューセーは小屋で作業をしていた。
「マイヤか。親父さん、なんて?」
「返事書いてもいいって」
父さんは、もう住所は知られているんだし、悪用する気なら手紙なんて出さずにもうしているのではないかと言った。それに、手紙に書かれた下手なアルファベットは、どう見ても小さい男の子が書いたもののように見えた。
「リューセー、昨日はごめんなさい」
あたしが素直に言うと、彼は目を丸くした。
「意地悪であんなこと言ったと思ったの。でも、外の世界では大切な決まりだったんだね」
彼は少し居心地悪そうに咥えていた葉っぱを噛むと、「わかればいいってことよ」と言って頭を掻いた。そして、口の端をにっと上げた。
「で、なんて書きたいんだ?」
それから、あたしとユーゴの文通がスタートした。ユーゴは英語で、あたしはニホン語で返事を書いた。ニホン語の師匠はリューセーで、彼は仕事の合間に、ひらがなの書き方を教えてくれた。手紙のやり取りは短い時には一か月に一回、長い時には半年に一回のペースで、ずっと続いていった。
ユーゴはニホンの北の漁村に住んでいるらしかった。一度送ってくれた写真には、あたしたちの島の海とはまったく違う、凍てつきそうな暗い海が写っていて、驚いた。星が落ちたように波のきらめく深い色は、とても綺麗だった。
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