恋する男子に水泳を教えて(4)
その日の放課後。
俺は、香川先輩から急遽呼び出されて、たった一人で体育館裏へと向かう。
この一週間は、期末試験のテスト期間中である。
暑さを避けて勉強に集中するため、普段よりも多くの生徒がエアコンの効いた図書室を利用している。
なので、今から二人きりで会える場所まで来てほしいという。
この学校の体育館裏と言えば、平らな砂地をならした練習用のテニスコートが設けられている場所だ。
女子テニス部に所属する野々坂百花が、いつも放課後を過ごしている場所でもある。
試合が行われる本番のコートは、二三年生を中心としたレギュラーメンバーしか使えず、それ以外の部員は、楽しくお喋りしながら小石を拾ったり、体育館の壁に向かってボールを打っている。
とがった小石があると転んで怪我をする恐れがあるので、みんなで練習前に拾うのが決まりなのだそうだ。
――それに、今日はちょっとお腹が痛いから。
用法と容量を守って一日に二錠のみ、市販の頭痛薬を飲んだ野々坂は、しばしば練習日にもかかわらず部活をサボって図書室に隠れる。
郷土研究部の副部長である香川先輩を頼って、誰にも見つからないようにかくまってもらうのだ。
だから俺は、どうせ今日はいないだろうと思いつつも、ついつい彼女が現れそうな場所へ足を運んでしまう。
「聞いたわよ、青木君」
「えっ?」
「あなた、せっかく女の子からプールへ行こうって誘われたのに、その申し出を断ったんですって?」
香川先輩は、体育館の裏口へつながる外階段の上り口に座り込んでいた。
そのせいで、制服のスカートをはたいて立ち上がるまで、こちら側からは先輩の姿が見えなかった。
おそらく、たった今俺から届いたメッセージを確認して、付近にいることを察したのだろう。
学生鞄を置き去りにケータイだけ握りしめて、上履きのまま土足のエリアまで詰め寄ってくる。
「どうして?」
「えっ?」
「だから、どうして? ほかに好きな人がいるの?」
普段あまり学校内でケータイを使わない俺が、先輩からの思わせぶりなメッセージに気づいたのは、ほんの数分前。
ちょうど帰り際に校門脇の駐輪場へ立ち寄り、自転車を漕ぎ出そうとするところだった。
「さては、理由を答えられないんでしょう?」
「いいえ、決してそういうわけでは」
「今もまだ付き合ってる彼女がいるなら、そう言いなさいよ。私が別れさせてあげるから」
「あの、それは俺の母親なんですが……」
香川先輩は、いきなり俺の鞄を掴んで振り回すようにひったくると、スマホだけ盗んでかなぐり捨てる。
そして、絵文字だらけの不自然なメッセージの内容から、見知らぬ女性との交際を隠すための巧妙な隠蔽工作だと断定。
保存された写真をスライドして決定的な証拠を探し、過去の履歴を次々と消去していく。
「……青木君?」
「はい」
「あなた、毎日お母さんに学校から帰る時間を伝えているの?」
「それの何がいけないというんですか?」
あらためて紹介しておこう。
この人の名前は、
我が校の伝統と歴史ある郷土研究部――その副部長を任されている二年A組の女子生徒だ。
といっても、俺はこの人についてあまり多くのことを知らない。
勉強に関する質問なら、何でも答えてあげるわよ――というのが先輩の口癖だが、それは裏を返せば、プライベートな事柄に関しては詮索しないでほしい、という意思表示ではなかろうか?
「もう一度聞くわ。どうしてあの子たちとプールへ行くことを断ったの?」
香川先輩は、あたかもカタツムリがツノを突くがごとく、むくっと怒りをあらわにする。
頭のてっぺんに挿している編み込み模様のカチューシャから、汗まじりのつんとした匂いがする。
俺は、セミの鳴き声がする木陰を後ろに背負って、じりじりとあとずさる。
案の定、近寄りすぎて高いところからおしっこを引っかけられてしまう。
「だって俺、カッコ悪いじゃないですか」
「別に泳げなくたっていいじゃない。浮き輪さえあれば」
「だから恥ずかしいんです。それが普通でしょう?」
「意気地なしね。そんなに怖がってばかりじゃ、いつまで経っても上達しないわよ?」
「先輩には分かりませんよ、俺の気持ちなんて」
「本当はあなただって、もっと上手に泳げるようになりたいと思ってるくせに!」
そう言って先輩は、握り拳を振りしぼって悔しそうに地団駄を踏む。
感情的な口論がますます熱を帯びて、涼しげにすましていた表情にも苛立ちがつのる。
「……ひょっとして先輩も、俺たちと一緒にプールへ行きたかったんですか?」
「ええ、もちろん賛成したわ。反対する理由がないもの」
「お言葉ですが、俺は泳ぐのが苦手だからプールに行きたくないわけじゃありません」
「屁理屈をこねないで。私はどうしても夏休みにプールへ行きたいの。海水浴でもいいけど」
「そこまで言うなら行きますよ、俺だって。行けばいいんでしょう?」
「いいえ、ここは多数決じゃなくてじゃんけんで決めましょう。そしたらあなたも納得するでしょうし」
「だったらもう、行きたい人だけで行けばいいじゃないですか」
「本当に分からず屋ね。私は同性じゃなくて異性に興味があるの。男女で一緒にプールに入らないと、男の子同士も女の子同士も心から楽しめないでしょう?」
俺は、照りつける夏の太陽に喉の渇きを覚え、日焼けした腕で汗をぬぐう。
体育館の外壁を這うヤモリが亀裂に潜み、そよ風に吹かれた木漏れ日がざわつく。
「だけど、やっぱり俺は……」
「いいえ、何も答えなくていいわ。あなたがまだ、どちらとも言えずに迷っているのなら」
それから俺と先輩は、しばらくのあいだ何も話さずに気まずい時間を過ごした。
炎天下で熱せられた学校のグラウンドから、ゆらゆらとした陽炎が立ちのぼる。
「あの子たち、ひどく落ち込んでいたわよ」
「――野々坂と千嵐が、ですか?」
「当然でしょう? だって、私たちは女の子だもの」
香川先輩は、太陽に背中を向けて自分の影ばかり見つめていた。
こっちには見えないようにそっぽを向きながら空を仰ぐと、飲み干したペットボトルを鞄にしまって歩き出す。
そのまま校舎のほうへ戻るつもりかと思いきや、トタン屋根で遮られた渡り廊下の途中でふと立ち止まる。
ほんの少しだけ待ってくれている様子だったので、俺も遅れないようにあとからついていく。
「女の子ってね、いつも不安なのよ。明日プールに入れるかどうか。カレンダーの予定がずれちゃったらどうしようって」
先輩は、後ろ手を組んだまま一歩前に出て、上靴のつま先でペダルを踏みつける。
髪の毛に隠れた耳を出しながら、おちょぼ口をすぼめて小さな噴水をすする。
体育館の側面にある出入り口のそばに設置された給水機だ。
この日の放課後は、部活が休みなので水飲み場にやってくる生徒がおらず、俺の順番もすぐに回ってきた。
「たとえあなたに悪気はなかったとしても、あの子たちからしてみれば、きっと誰にも打ち明けられない悩みを抱えているんじゃないかって、ひょっとしたら自分自身にも原因があるんじゃないかって、そんなふうに思ってしまうもの」
まるで、誰かの血が混ざっているみたいだ。
ほのかに錆びた鉄の味がする。
俺は、なまぬるい水ですすいだ口をぬぐい、遠ざかる先輩に向かって思いきって質問してみた。
「もしかして、それが生理なんですか?」
すると先輩は、少し気まずそうにはにかんでこう答えた。
「そういうことは、私じゃなくてお母さんに聞くべきよ。あなたが男の子ならね」
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